ダブリン
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14世紀に入っても、城壁で囲まれた比較的小さな中世の町のままで、周囲の先住民族の脅威にさらされていた[35]1348年には、ヨーロッパを襲ったペストがダブリンを襲い、その後の10年間で何千人もの死者を出した[36][37]

ダブリンは、ペイルとしてイングランド君主に編入された。16世紀テューダー朝のアイルランド征服は、ダブリンに新たな時代の幕開けを告げ、アイルランドの行政支配の中心地として新たな存在感を発揮した。ダブリンをプロテスタントの街にしようと決意したイングランド女王エリザベス1世は、1592年ダブリン大学トリニティ・カレッジをプロテスタントの大学として設立し、カトリック教会聖パトリック大聖堂クライストチャーチ大聖堂をプロテスタントに改築するよう命じた。

1640年には21,000人の人口を擁していたが、1649年から1651年にかけてペストが発生し、住民のほぼ半数が全滅した。しかし、その後すぐにイギリスとの羊毛リネン貿易の結果として再び繁栄し、1700年には人口は5万人を超えた[38]
近世

1759年ギネス醸造所が設立され、やがて世界最大の醸造所に成長し、ダブリンで最大の雇用主となった[39][40]

17世紀、イギリスのピューリタン革命の間、ダブリンはクロムウェルの議会派勢力に包囲された。1798年のアイルランド民族主義組織ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、1803年1847年1867年にも蜂起がくりかえされた。1916年1919年から1921年のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっている。

歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドもダブリン城に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心であった。

17世紀末頃より、大陸から来たユグノーやフランドル人によって各種工業が発展し、18世紀には大英帝国第2の都市、ヨーロッパでも5番目に大きい都市となった。旧市街にはこの頃に建てられた建築物が数多く残っている。
近代
イギリス植民地時代

1800年の合同法がアイルランド議会にて可決、成立した。これにより、グレートブリテン王国との合同が成され、それとともにアイルランド議会は解散した。この頃より、ダブリンは政治的、経済的衰退に苦しんだ。産業革命では大きな役割を果たさなかったが、行政の中心地であり、島の大部分の交通の要所であり続けた。アイルランドには当時の燃料である石炭の重要な供給源がなく、ダブリンはイギリスとアイルランドの産業発展のもうひとつの原動力である船舶製造の中心地ではなかった[41]ベルファスト国際貿易、工場でのリネン生地生産、造船業などが混在していたため、この時期のダブリンよりも早く発展した[42]
独立1916年のイースター蜂起後のダブリン市内中心部の被害状況(左前:中央郵便局の廃墟、右奥:ネルソンの柱

1916年のイースター蜂起アイルランド独立戦争、そしてその後のアイルランド内戦により、ダブリン中心部はかなりの物理的破壊を受けた。アイルランド自由国政府はダブリンの中心部を再建し、新しい議会であるウラクタスレンスター・ハウスに設置した。

12世紀にノルマン人の支配が始まって以来、ダブリンはアイルランド卿(1171年 - 1541年)アイルランド王国(1541年 - 1800年)、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(1801年 - 1922年)、アイルランド共和国(1919年 - 1922年)などの地政学的な組織の中で首都として機能してきた。

英愛条約に基づき、1922年のアイルランド分割後、アイルランド自由国(1922年 - 1937年)の首都となり、現在もアイルランドの首都となっている。記念碑のひとつに追憶の庭(: An Gairdin Cuimhneachain、: Garden of Remembrance)がある。

1937年の新憲法施行により、「独立した民主的な国家」エール(Eire)が成立した。1949年にアイルランドがイギリス連邦より離脱した。

現代

ダブリンもまた、30年にも及ぶ北アイルランド紛争の犠牲者だったが、暴力は主に北アイルランド内で発生した。しかし、IRA暫定派はダブリンを含む共和国内からも支援を受けていた。ロイヤリスト(イギリスと北アイルランドの連合の支持者)の準軍事組織であるアルスター義勇軍は、この時期に街を爆撃し、ダブリン・モナハン爆弾事件では、ダブリン中心部を中心に34人が死亡した。

1997年以降、ダブリンの景観は変化してきた。ケルトの虎時代には、住宅・交通・ビジネスなどの民間部門と国家による開発が行われ、アイルランドの経済発展の先頭に立っていた。大不況期に経済が落ち込んだ後、ダブリンは立ち直り、2017年現在では完全雇用に近い状態になっている[43]。しかし、市内と周辺地域の住宅供給には依然と問題が残っている[44]

現在も、市の中心部のメリオン通りおよびメリオン広場周辺にアイルランド政府の議会や主要官庁が立ち並び、アイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えている。
政治
行政ダブリン市議会議事堂
地方政府

1842年からは、ダブリン市とダブリン男爵領の間で境界線が定められていた。1930年には、地方政府(ダブリン)法によって境界線が拡張された[45]。その後、1953年には、地方政府暫定令確認法(Local Government Provisional Order Confirmation Act)により、境界線が再び拡大された[46]
議会
市議会
ダブリン市議会

ダブリン市議会(Comhairle Cathrach Bhaile Atha Cliath)は、5年ごとに地方選挙区から選出された63議席で構成される一院制の議会である[47]
議長

議長は、1年ごとの任期で選出された市長が務め、ダブリンのマンションハウスに居住している。議会会議はダブリン市庁舎で行われ、行政活動のほとんどはウッド岸壁の市民事務所で行われている。議席数の過半数を占める政党または政党連合が委員を割り当て、政策を紹介し、市長に提案する。議会は、住宅、交通管理、ごみ、排水、計画などの分野に支出するための年間予算を可決する。
国家機関アイルランド国民議会(ウラクタス)議事堂(レンスター・ハウス
大統領府

大統領府はフェニックス・パーク大統領公邸に、ウラクタスの両院はキルデア通りにあるかつての公爵家の宮殿であるレンスター・ハウスにある。


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