ダブリン
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ダブリンは10世紀にヴァイキングの居住地として設立され、アイルランド人による何度もの攻撃にもかかわらず、1169年ウェールズからノルマン人がアイルランドを侵攻するまで、大部分がヴァイキングの支配下にあった[30]1166年初頭にアイルランド上王のムルタ・マクロクリンが死去し、コノート王のルアリー・ウア・コンホヴァルがダブリンに上陸し、反対することなくアイルランド王に就任した。

歴史家によると、ダブリンの初期の経済成長の一部は、奴隷貿易に起因しているという説もある[31]。アイルランドとダブリンの奴隷制度は、9世紀から10世紀にかけて頂点に達した[32]。奴隷襲撃や誘拐の囚人は、アイリッシュ海の襲撃者や、奴隷制度を始めたヴァイキングに収益をもたらした[33]。犠牲者の中には、ウェールズイングランドノルマンディーなどから来ていた[31]

レンスター王のダーマット・マクモローは、ペンブルック伯のリチャード・ド・クレア(愛称: 強弓)の助けを借り、ダブリンを征服した。マック・マローの死後、強弓は都市の支配権を獲得した後、自らをレンスター王と宣言した。強弓の侵略に成功したイングランド王ヘンリー2世は、1171年に大規模な侵略を行い、アイルランドの領主としての究極の主権となった。この頃、ダブリン市に隣接する一定の自由権とともに、ダブリン市の県(County)が設立され、1840年にダブリン市がダブリン男爵制から分離されるまで続いた。2001年以降は、両男爵領がダブリン市として再指定されている。

アイルランドにおけるノルマン勢力の中心地となったダブリン城は、1204年イングランド王ジョンの命令を受け、大規模な防衛工事として築城された[34]1229年に初代ダブリン市長が任命された後、ダブリンの街は拡大し、13世紀末には8,000人の人口を抱えるまでになった。1317年スコットランド王ロバート1世がダブリンを占領しようとしたにもかかわらず、貿易の中心地として繁栄した。14世紀に入っても、城壁で囲まれた比較的小さな中世の町のままで、周囲の先住民族の脅威にさらされていた[35]1348年には、ヨーロッパを襲ったペストがダブリンを襲い、その後の10年間で何千人もの死者を出した[36][37]

ダブリンは、ペイルとしてイングランド君主に編入された。16世紀テューダー朝のアイルランド征服は、ダブリンに新たな時代の幕開けを告げ、アイルランドの行政支配の中心地として新たな存在感を発揮した。ダブリンをプロテスタントの街にしようと決意したイングランド女王エリザベス1世は、1592年ダブリン大学トリニティ・カレッジをプロテスタントの大学として設立し、カトリック教会聖パトリック大聖堂クライストチャーチ大聖堂をプロテスタントに改築するよう命じた。

1640年には21,000人の人口を擁していたが、1649年から1651年にかけてペストが発生し、住民のほぼ半数が全滅した。しかし、その後すぐにイギリスとの羊毛リネン貿易の結果として再び繁栄し、1700年には人口は5万人を超えた[38]
近世

1759年ギネス醸造所が設立され、やがて世界最大の醸造所に成長し、ダブリンで最大の雇用主となった[39][40]

17世紀、イギリスのピューリタン革命の間、ダブリンはクロムウェルの議会派勢力に包囲された。1798年のアイルランド民族主義組織ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、1803年1847年1867年にも蜂起がくりかえされた。1916年1919年から1921年のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっている。

歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドもダブリン城に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心であった。

17世紀末頃より、大陸から来たユグノーやフランドル人によって各種工業が発展し、18世紀には大英帝国第2の都市、ヨーロッパでも5番目に大きい都市となった。旧市街にはこの頃に建てられた建築物が数多く残っている。
近代
イギリス植民地時代

1800年の合同法がアイルランド議会にて可決、成立した。これにより、グレートブリテン王国との合同が成され、それとともにアイルランド議会は解散した。この頃より、ダブリンは政治的、経済的衰退に苦しんだ。産業革命では大きな役割を果たさなかったが、行政の中心地であり、島の大部分の交通の要所であり続けた。アイルランドには当時の燃料である石炭の重要な供給源がなく、ダブリンはイギリスとアイルランドの産業発展のもうひとつの原動力である船舶製造の中心地ではなかった[41]ベルファスト国際貿易、工場でのリネン生地生産、造船業などが混在していたため、この時期のダブリンよりも早く発展した[42]
独立1916年のイースター蜂起後のダブリン市内中心部の被害状況(左前:中央郵便局の廃墟、右奥:ネルソンの柱

1916年のイースター蜂起アイルランド独立戦争、そしてその後のアイルランド内戦により、ダブリン中心部はかなりの物理的破壊を受けた。アイルランド自由国政府はダブリンの中心部を再建し、新しい議会であるウラクタスレンスター・ハウスに設置した。

12世紀にノルマン人の支配が始まって以来、ダブリンはアイルランド卿(1171年 - 1541年)アイルランド王国(1541年 - 1800年)、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(1801年 - 1922年)、アイルランド共和国(1919年 - 1922年)などの地政学的な組織の中で首都として機能してきた。

英愛条約に基づき、1922年のアイルランド分割後、アイルランド自由国(1922年 - 1937年)の首都となり、現在もアイルランドの首都となっている。記念碑のひとつに追憶の庭(: An Gairdin Cuimhneachain、: Garden of Remembrance)がある。

1937年の新憲法施行により、「独立した民主的な国家」エール(Eire)が成立した。1949年にアイルランドがイギリス連邦より離脱した。

現代

ダブリンもまた、30年にも及ぶ北アイルランド紛争の犠牲者だったが、暴力は主に北アイルランド内で発生した。しかし、IRA暫定派はダブリンを含む共和国内からも支援を受けていた。


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