ダブリン大主教
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注釈^ カトリックでは「首座司教」あるいは「首座大司教」の訳語を用いる。
^ アイルランド南部の5主教区とは、ケッシェルおよびオソリー主教区、コーク、クロインおよびロス主教区、リムリックおよびキラルー主教区、ミーズおよびキルデア主教区と自身が主教を勤めるダブリンおよびグレンダーロッホ主教区。
^ この後、文章中では頻繁に聖別(叙階)の語が出てくるが、これはカトリックにおいて聖別は使徒継承に欠かせない要件であるためである。また使徒継承を主張するプロテスタント教会である聖公会においても、この聖別は重視される。
^ 当時は、市壁の中だけを監督していた。
^ アルエーズ会則(Arrouaise)とは聖アウグスチノ修道会の会則を改めたもの。
^ 連署人の一覧についてはen:Magna Cartaを参照のこと。
^ ただし、このためヒューはアーマー大主教らから非難を浴び、1567年に大主教の地位を退いている。
^ もうひとつのチュアム大主教管区はアーマー大主教管区に吸収される形で1839年に消滅しており、現在、北の7区はアーマー大主教が統べている。
^ クライストチャーチの教区教会格下げを示唆したり、新しい大聖堂の建設がたびたび話題に上るなど、変更を示すことはままあった。ただし現在に至るまで聖マリアは臨時司教座聖堂のままであり、また新しい大聖堂の建設地の有力候補はダブリン市に長期間貸し出され、今日では公園になっている。
^ カトリックでは聖職者の結婚は認められていないが聖公会ではマシュー・パーカーをはじめ、当時でも妻帯聖職者が存在していた。
^ ナルシスス・マーシュはアイルランド語訳旧約聖書を改訂、初めて発行。翻訳はウィリアム・ベデルによる。
^ 本来、教区に大聖堂はひとつでありダブリン主教区の状態は歴史的に見ても珍しいケースではある。
^ イギリスの貴族院においてアイルランド国教会に割り当てられていた議席数は大主教の枠が1つと主教の枠が3つ。

出典^ Catholic Truth Society 1911, p. 162.
^ Newman 1872, pp. 207?212.

参考文献

発行年の順。

Newman, John Henry (1872). “§17: The Ancient University of Dublin”. Historical sketches: rise and progress of universities, Northmen and Normans in England and Ireland, Medieval Oxford, Convocation of Canterbury.. London: B.M. Pickering. pp. 207-212 

The Catholic Encyclopedia. (1909) New York: Robert Appleton Company

Bishop of Canea: Short Histories of Dublin Parishes. Part VIII. Dublin: Catholic Truth Society. (1911) 

外部リンク

ダブリン大主教区の公式HP(英語)


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