ダバオ市
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1900年、フィリピンを事実上支配下に置いたアメリカ軍がこの地に上陸して統治を開始すると、個人農園の開拓が進み輸送・通信手段が改善され、この地方の経済的発展の端緒が開かれた。
ダバオ日本人社会ダバオの日本人街(1930年代)ダバオの日本人学校(1939年)。日本人と現地人の結婚も多く、生徒の半数以上が混血という学校もあった[3]

兵庫県出身でマニラで雑貨商を営んでいた日本人実業家、太田恭三郎(1876-1917[4])はこの地に目をつけ、1903年、広大な土地を開発する許可を受けてアバカマニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げた。当時日本沖縄から多くの労働者がマニラとバギオを結ぶ高原道路・ベンゲット道路の過酷な工事に従事していた。ベンゲット道路(en:Kennon Road)は1898年からフィリピンを支配し、マニラに総督府を置いた米国が、夏の間の行政機能をバギオに移すために1901年に着工し、難工事の末、1905年に完成させた全長約41qの道路である[5]。太田は工事で疲労困憊した彼らをダバオに誘い外国人経営の農園で働かせた[3]。マニラ麻は船舶用のロープの原料として飛ぶように売れ、フィリピン法にのっとって会社を設立すれば外国人でも土地を所有できることを知った太田はベンゲット道路で労働していた沖縄県人のリーダー・大城孝蔵らとともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を1907(明治40)年5月に設立、これが日本人による最初のダバオでの会社だった[3][6]。1914年には伊藤商店(現伊藤忠丸紅)の援助を受けた古川拓殖株式会社が設立され、太田興業とともにダバオにおける二大アバカ麻会社となった[3]。1918年には日本人経営の会社は60社にのぼり、日本人の経済進出が目立つようになると、フィリピン国内でこれを警戒する排日世論が高まり、1919年、6割以上の株式をフィリピン人か米国人が保有しない限り土地を払い下げないという日本人に不利な新土地法が制定され、日本人殺傷事件も頻発した[3]

1910年代、日本人移民、とくに大城孝蔵の呼び寄せによる沖縄県からの移民が増加し、第一次世界大戦景気でロープも大いに売れたこともあり1916年には1万人の日本人が住むに至った。大戦後不況で多くの日本人がダバオを離れたが、沖縄県出身者はとどまり、1938年にはダバオに1万8千人住んでいた日本人のうち沖縄県出身者が7割を占めた。太田は激増する農園需要と日本人移民の居住地を満たそうとバゴボ人の首長インタルから土地を獲得し、この場所に多くの人がとどまるように「民多留(みんたる)」と名づけた。ミンタルは日本人町になり、日本人学校、日本語新聞、日本領事館病院、商店、売春宿、仏教寺院、キリスト教会、神社などが作られた。周囲には日本の商社の支援を受けた大手農園・工場や、一から作った中小農園など多くの農園会社が林立しダバオ湾岸には日本人経営のアバカのプランテーションが広がった。またコプラ材木漁業基地、雑貨の輸出入なども日本人によって手がけられた。

一方バゴボ人の頭越しにアメリカ人官僚から土地を獲得する者が増えて現地人と日本人の関係が悪化し、第一次大戦景気の間の麻農園拡張期には100人以上の日本人が殺された。またアメリカ植民地政府は日本人社会の膨張と日本の南方拡大の欲望が結びつくのを警戒し、ダバオ日本人社会を満州国(マンチュクォ)にならってジャパンクォ、ダバオクォと呼んでいた。こうした緊張関係もあったがダバオの麻製造をはじめとした農業・商工業は発展を遂げ、ダバオ経済の半分以上は日本人が支えるようになった。フィリピン人は進んだ栽培技術を日本人経営の農園で身につけ、これがダバオの産業の基礎が農業になることに繋がっている。

ダバオは1937年3月16日に正式に市となった。しかし数年後、太平洋戦争の開戦で日本人社会はアメリカ領フィリピンの中で厳しい目にさらされ、日本人はフィリピン人やアメリカ人たちによって強制収容された。しかし1941年12月20日未明、日本軍がミンダナオ島に上陸、当日のうちにダバオは占領された[7]。日本の軍政が始まると日本人移民は解放され、逆に多くのフィリピン人が殺された。街の日本化が進む一方、アメリカによるフィリピン・コモンウェルス政府を通じた間接支配で事実上自治を手にしていたフィリピン人は日本人や日本軍に対して敵愾心を抱き、1944年にフィリピン奪回を開始したアメリカ軍を熱狂的に迎えゲリラ活動に参加した。ミンダナオ島の戦いでダバオ市、とりわけ日本人街ミンタルは最激戦地となった。日本軍と民間人は山岳部に退却したが、戦闘やゲリラ襲撃、病気や飢餓で山中を彷徨していた兵士・民間人数万人が死亡した。以後、生き残った日本人移民は抗日運動を恐れ日本人である証拠を消し、戦後相当の年月がたつまでフィリピン人としてひっそりと暮らすことになる。

2006年6月6日付け「まにら新聞」の記事によると、2005年10月時点で、マニラ総領事館ダバオ駐在官事務所(当時。現・在ダバオ日本国総領事館)管轄邦人数は3ヶ月以上の長期滞在人数は165人、永住者は120人となっている。ダバオの永住者の比率は42.1%となり、マニラの15.4%、セブの23.2%に比べ「永住志向」が高い。

1949年8月1日ポツダム政令「旧日本占領地域に本店を有する会社の本邦内にある財産の処理に関する政令」(「在外会社令」)により、太田興業はじめ40数社あった日本の在外会社は財産放棄し、すべて喪失した[6]。古川拓殖や太田興業の耕地や施設はフィリピン国立麻会社「ナフコ」が引き継いだが、ほどなくして荒廃した[6]
戦後のダバオケソン大通り

戦後のダバオ周辺は一転してドールチキータなどアメリカの大規模農業会社による果樹のプランテーションが広まった。ダバオはマニラに次ぐ大都市として繁栄し、特に人口過剰なフィリピン北部や中部の農民を受け入れ拡大した。しかし1970年代以降、ムスリムの分離独立を訴えるモロ・イスラム解放戦線 (MILF) や大地主やプランテーションの打倒を目指す新人民軍 (NPA) による内戦がミンダナオ島山岳部で起こり、ダバオは比較的平穏ながらもその影響を受け、また1980年代には農産物の市場価格の下落がダバオ経済をゆすぶり犯罪や貧困が増加した。

1990年代MILFやNPAは掃討され勢力を弱め、2000年代に入りダバオは落ち着きを取り戻し、ダバオ市は農業に加え情報産業も振興させようとしている。一方、より過激で国際的なネットワークを持つアブ・サヤフジェマ・イスラミアがダバオから離れたミンダナオ島西部に現れ、これまでテロとは無縁だったダバオでも2003年3月から4月に国際空港旧ターミナルおよび港湾部の客船埠頭で連続爆弾テロが起こり合わせて38人が死亡、200人が負傷した。MILFが関与を疑われているが、彼らは関与を否定している。

1988年、ダバオ市の検察官を務めていたロドリゴ・ドゥテルテがダバオ市長に就任し、青少年の夜間外出禁止や街頭でのアルコール飲料飲酒禁止など、軽犯罪を取り締まる条例を矢継ぎ早に通過させ、警察の権限を強め、監視カメラを増やし、自ら大型バイクに乗って、重武装の車列を率いてパトロールをしてみせるなど、犯罪防止に力を入れた。ドゥテルテは1988年から1998年までの3期、2001年から2010年までの3期、2013年から2016年までの1期と、長期にわたってダバオ市長を務め、2016年にフィリピンの大統領に就任した。

ドゥテルテの執政下では、フィリピン国内でも「フィリピンの殺人都市」とまで言わるくらい最悪の部類だったダバオ市の治安は、劇的な回復をして経済は活況を呈し、人口は1999年の112万人から2008年の144万人へと大きく増加した。ダバオ市観光局は、タクシーのボッタクリや乗車拒否、犯罪発生率を劇的に軽減させることに成功したダバオ市を「東南アジアで最も平和な都市」と称している。しかし一方で、ドゥテルテの容認の下で「ダバオ・デス・スクワッド(Davao death squads、ダバオ死の部隊)」と呼ばれる組織が、犯罪者を超法規的措置によって殺害してきたとされ、人権団体やアムネスティ・インターナショナルが批判している。
産業ヴィクトリアプラザ付近の街路風景

ダバオの産業は農業関連産業および工業が中心であるが、ダバオに多く集中する各種大学や、恵まれた通信インフラ・電力インフラなどを生かして情報技術産業の中心になろうという構想もある。2006年10月には、情報通信技術の振興を目指す ICT Davao, Inc が設立され、ダバオ市およびダバオ湾岸の州にこれらの産業を集積させようという「シリコン・ガルフ」構想が打ち出されている。ダモサ地区にはDamosa IT ParkというIT産業団地が建設される。
交通

ダバオ市はフィリピン国内外の多くの都市から航空機船舶バスなどがアクセスしている。航空便ではマニラからダバオ国際空港まで1時間40分、セブからはわずか30分であるほか、サンボアンガイロイロなどへ国内便が多く運行している。国際線はシンガポールへは毎日、香港インドネシアマナドへの便もある。


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