ダニエル・イノウエ
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ハワイ生まれの日系二世[5]。父・井上兵太郎は1899年(明治32年)9月28日に福岡県八女郡横山村(後の北川内町上陽町を経て現在の八女市)から両親浅吉・モヨとともにアメリカ合衆国ハワイ準州に移住[4][5][注 1]。母・かめ(旧姓: 今永)は両親とともに広島県高田郡三田村(現在の広島市安佐北区)からハワイに移住した[4][5][7]

ダニエル・イノウエは1924年(大正13年)にアメリカ合衆国ハワイ準州ホノルルで生まれる[5]。イノウエはホノルルに育ち、ハワイ大学マノア校に進学した。
第442連隊の英雄陸軍中尉時代のイノウエ

ハワイ大学在学中の1941年12月に日本軍による真珠湾攻撃が行われ、アメリカが第二次世界大戦に参戦した後、ハワイでの医療支援活動に志願、その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線で戦う[8]

イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、1945年4月21日に少尉に昇進していたイノウエが小隊を率いてドイツ軍の堅固な防衛線を攻撃した際、36メートルほどの至近距離から三挺の機関銃から射撃を受けた。イノウエは腹部に銃弾を受けたが、手榴弾と短機関銃で二挺を撃破し、倒れ込んでもなお攻撃を続けた。イノウエが最後の機関銃座ににじり寄り、手榴弾を投げ込もうとして右腕を振りかぶったところ、ドイツ軍兵士が発射した小銃擲弾がその右腕に命中、炸裂はしなかったものの、腕はわずかな腱や皮膚を残して切断寸前となった。イノウエの手榴弾は安全ピンが抜かれてはいたが、右手の指が安全レバーを握りしめた状態だったため未発火であった。

戦友たちはイノウエを助けようとしたが彼はそれを押しとどめ、右手の手榴弾を左手でもぎ取り、機関銃座の銃眼に投げ込んで炸裂させた。その後、千切れかけた右腕をぶら下げたまま、イノウエは左腕一本で短機関銃を操ってなおも戦闘を続けたが、左足にも負傷して昏倒した。

野戦病院で右の下腕を切断され、後送された彼は1年8ヶ月に亘ってミシガン州バトルクリークのパーシー・ジョーンズ陸軍病院に入院したものの、多くの部隊員とともに数々の勲章を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から英雄としてたたえられる。なお同病院は2003年に、イノウエら3名の負傷兵の名を冠して「Hart-Dole-Inouye Federal Center」と改名された。彼は軍務を続け、1947年に陸軍大尉として名誉除隊した。しかし右腕を失ったことにより、当初目指していた医学の道をあきらめた。
除隊後

ハワイ大学に復学して政治学を専攻し、1950年Bachelor of Arts in political scienceを得て同大学を卒業した。卒業後、ジョージ・ワシントン大学の法科大学院に進学し、1953年J.D.を授与された。1954年に同じく退役軍人のエルトン・サカモト、サカエ・タカハシらとセントラル・パシフィック・バンクを設立した[9][10]
日系人初の上下両院議員ジョン・F・ケネディ大統領とイノウエ(1962年)

その後は政界に進出し、1954年には準州であったハワイ議会の議員に当選した。1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となる。初登院の際、下院議長が通例通り「右手を挙手して宣誓の言葉を続けてください」と言ったが、イノウエは左手を挙げた。議事録には「右手がなかったのである。第二次世界大戦で、若き米兵として戦場で失くしたのだ。その瞬間、議会内に漂っていた偏見が消え去ったのは、誰の目にも明らかであった」との記録がある[11]。同年、来日した際に時の首相岸信介とも会談し、「日系アメリカ人が駐日アメリカ大使として赴任する時が来たのではないか」という意見を述べたが、岸には否定された[12][13]。Following that silence, the Prime Minister said that at the present time there were many sons of noble families in the Foreign Ministry, and it might be difficult for Japanese Americans to work with some of them. Furthermore, he added, "I hope you will understand that most of the Japanese left Japan to go to a strange land like Hawaii or Brazil to work in the fields, because they were failures. In other words, they could not make a living in Japan. I am certain if they were successfully working and supporting a family in Japan, they would not have left. Very few successful men and women leave home for a strange place, not knowing what to expect."
【日本語訳】 沈黙の後、首相は、現在の外務省には華族の子弟が多く、彼らと日系アメリカ人が仕事をするのは難しいかも知れないと述べた。さらに首相はこう続けた。「ご理解いただきたいのですが、日本を去ってハワイやブラジルで農業をすることを選んだ人たちの多くは、〔日本国内では経済的に〕失敗者でした。言い換えると、彼らは日本で生計が立てられなかったのです。もし彼らが日本国内で良い職を得て家族を養うことができていれば、彼らは日本を離れなかったでしょう。〔国内で〕成功した人は、何が起こるかわからないのに故郷を離れて異国に出て行こうとはしないものです。」 ? グレン・S・フクシマの講演[13]で引用されているダニエル・イノウエの回想。
日本語訳は引用者作成、角括弧〔〕内は訳出時の補足。

その後、1963年には上院議員となり、戦時補償法の制定などに尽力する傍ら、1973年にはウォーターゲート事件1987年にはイラン・コントラ事件の上院調査特別委委員長となり注目を浴びる。

アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ、上院歳出委員会国防小委員会の民主党長老議員として、エリック・シンセキ大将の陸軍参謀総長就任に尽力している。
議員として

民主党の上院議員として上院歳出委員会の国防小委員会で上級委員を務めたほか、カリフォルニア州ロサンゼルス日本人街リトル・トーキョーにある全米日系人博物館の理事長も務めた。

2000年6月21日に、陸軍殊勲十字章ブロンズスターメダルの受賞理由が見直され、軍人に贈られる最高位の勲章である名誉勲章を受章したほか、2007年11月、フランス政府からレジオンドヌール勲章(シュヴァリエ)を授与された。

2008年アメリカ合衆国大統領選挙においては、ヒラリー・クリントン上院議員を支持した。2010年の中間選挙にて民主党は上下院共に苦戦を強いられたが、再選を果たした。1980年代に、日米間の貿易摩擦が政治問題化した際には、リチャード・ゲッパート(英語版)などと共に、対日批判の急先鋒として立ち回った。2006年に57年連れ添った前妻マーガレット・マギー・アワムラ・イノウエと死別[1]。2008年5月に、全米日系人博物館初代館長・米日カウンシル初代会長のアイリーン・ヒラノと再婚した[2]


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