ダッハウ強制収容所
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国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒが1941年1月2日に定めた政令によると、ダッハウは庭仕事など軽い仕事に従事することのできる者を収容する「第一カテゴリー」の収容所に属していた[20]。1943年のバチカンとの合意の後には聖職者はこのカテゴリーの収容所に限定して送られるようになった[20]
飢えとチフス

戦争終結が近付くにつれ、ダッハウの状況はだんだんと悪化していった[21]。連合軍がドイツに迫ると、ドイツは囚人の解放を阻止するため、前線近くの強制収容所の囚人を内地の収容所に移しはじめ、ダッハウにも続々と到着した。食事や水が殆どあるいは全くない状況で移送が終わると、囚人は消耗して衰弱し半死半生となる者も珍しくなかった。過重収容、貧弱な衛生状態、乏しい食料そして囚人の衰弱を原因とするチフスの蔓延が深刻な問題となった[21]

前線から続く新たな移送で、収容所はすぐに囚人で溢れかえり、衛生状態は人間の尊厳が守られる状況ではなくなっていた。1944年末から解放の日までに15,000人が死亡したが、その犠牲者の約半数がダッハウ強制収容所の囚人であった。ロシア人捕虜500人は銃撃隊により処刑された。

1945年4月27日に、赤十字国際委員会代表のヴィクター・モーラーは収容所内に立ち入ることが許され、食料を配布した。同じ日の夕方、囚人がブーヘンヴァルト強制収容所から到着した。出発時は4,480人から4,800人いたものの移送中に多くが死亡し、到着まで生き延びることができたのは800人だけであった。2,300体を越える遺体は列車内やその周囲にそのまま放置された。収容所の最後の所長エドゥアルト・ヴァイター親衛隊中佐(彼は1942年9月から1943年11月まで収容所所長だったマルティン・ヴァイス親衛隊中佐の後任と考えられている)は既に4月26日に逃亡していた[注釈 3]

降伏の前日1945年4月28日には収容所長官マルティン・ヴァイスを始めとして収容所の守備隊や職員の多くがダッハウ強制収容所を離れていた。同日、赤十字の代表ヴィクター・モーラーは、収容者の集団脱走とチフスの流行が周辺地域に広まることを懸念し、収容所に残ったヴァイスの副官ヨハネス・オットー中尉に対して、収容所を放棄せずアメリカ軍が到着するまで囚人を外に出さないために守備隊を配置しておくように説得したが、オットーはそれに応じずダッハウから逃亡した。
収容所解放詳細は「ダッハウの虐殺」を参照死の列車の無蓋車の一つに横たわる死体ダッハウ強制収容所の生存者と第522野戦砲兵大隊

1945年4月29日、ダッハウ強制収容所の監視塔は連合軍に占領され、白旗が翻った[22]。赤十字代表モーラーは強制収容所を正式に降伏させるため、仮任命されたばかりの所長ハインリヒ・ヴィッカー親衛隊少尉を収容所の正門に呼び出そうとしていた。1945年4月29日午後遅く、ダッハウ強制収容所はヴィッカーによりアメリカ軍に降伏した[23]。降伏の際の情景が、ヘニング・リンデン准将の公式報告「ダッハウ強制収容所の降伏に関する報告」に鮮やかに描かれている。強制収容所の西側に沿って移動し南西角に近づくと、3人が休戦の白旗を持って近付いてきた。南西門の北75ヤード付近で3人と会った。この3人はスイス赤十字の代表一人と収容所司令官と司令官補佐というSS2人であった。スイス赤十字の代表は、通訳を務め、収容所には監視塔の分を除いて武器を放棄したSSが約100人いると述べた。攻撃しないことと収容所に半狂乱の捕虜が42,000人居りその多くはチフスに罹っているので監視員を救済するのに50人を割くよう命じたと言った。アメリカ軍の将校かと聞くので、「そうだ、第42師団の副司令官で、アメリカ軍の虹部隊の名の下に収容所の降伏を受け入れに来た」と答えた。アメリカ軍によるSSの処刑の様子

収容所が連合軍に降伏すると、収容所守備部隊は米兵が行った即決裁判による銃殺刑(いわゆる「ダッハウの虐殺」)の恐怖におののいた。殺された正確な人数は不明であるが、ある資料によるとこの方法で処刑されたのは35人に過ぎず、残りの515人は恐らく逮捕されたり逃亡したと考えられている。米兵に殺害された者の中には、ダッハウ収容所最後の所長となったヴィッカーもおり、兵士らに私刑を受けた後に銃殺された。その遺体は収容者の遺体と共にしばらく放置された。

アメリカ軍は32,000人の囚人を見付けた。定員250人の収容棟20棟には囚人が1,600人ずつ詰め込まれていた。アメリカ軍は39輌の列車に各々100体以上の遺体が詰め込まれているのも発見している。

収容所は1945年4月29日にアメリカ第7軍第42歩兵師団により解放されたということになっていたが、場所や存在は知られていなかった。この部隊は命令もなく他の部隊から准将として入隊することを拒否されたフェリックス・ローレンス・スパークス中佐が指揮していた。スパークスは告発され、逮捕されたが、告発はジョージ・パットン将軍が退けた(スパークスは本当に第45歩兵師団第157歩兵連隊に加わっていた。第42師団や第45師団という部隊は、実際にダッハウに一番乗りしたことについて不和の間柄であった)。パットンは吐き気をもよおすような収容所の状況に衝撃を受けたといわれる。

なお、実際には日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団所属の第522野戦砲兵大隊が収容所周辺における掃討作戦の中心的存在となっていたが、このことは1992年(ジョージ・H・W・ブッシュ政権下)まで公開されなかった。

アメリカ軍は婦女子を含む地域市民に収容所に来ることを命令し、収容所の中を見せ、施設の掃除を手伝わせた。地域住民はこのような扱いに憤り、収容所で何が起きていたか知らなかったと言ったがアメリカ軍は取り合わなかった。
ダッハウにおける解放後の復活祭アメリカ軍に歓声を上げる解放されたダッハウ強制収容所の囚人

解放の数日後は、正教会復活大祭であった。カトリック司祭たちは通常の主日ミサを祝ったが、ギリシャ人やセルビア人、ロシア人などの正教の司祭数名はSSのタオルから作った間に合わせの祭服を纏って復活大祭を祝った。ギリシャ人やセルビア人、ロシア人数百人の信徒たちも集まって式が行われた。ラールという名前の囚人は、この時の様子をこう述べている[24]。東方正教会の歴史で1945年のダッハウのような復活大祭は恐らくなかっただろう。セルビア人の輔祭と共にギリシャ人とセルビア人の司祭が、青色と鼠色の囚人服に間に合わせの祭服を纏ったのだ。その時ギリシャ語からスラヴ語に変えて聖歌を歌い、再びギリシャ語に戻した。復活大祭のカノンなど全ては記憶に基づいて歌った。「初めに光ありき」も同じだった。最後に聖ヨハネの説教も同じだった。聖なる山(アトス山の別称)から来た若い司祭が、我々の前に立ち、死ぬまで忘れそうもない熱狂が伝わる中で歌った。聖ヨハネ自身がこの司祭を通して我々にまた世界に語りかけたようだ![24]


同地に建立された正教の聖堂には収容所の門を出る囚人を導くハリストス(キリスト)を画いたイコンが掲げられており、有名である[24][25]

なお、ダッハウ解放の際のアメリカ合衆国第7軍については、『アメリカ合衆国第7軍作戦報告』第3巻382ページを参照のこと。
解放後

解放後、強制収容所はアメリカ軍の埋葬場に使用され、強制収容所のシンボルとしてヴァイスら同収容所関係者を裁いたダッハウ裁判の開催地ともなった。1948年、バイエルン州政府がこの場所に難民用の住居を建設し始め、長年使用された[26]
収容所を記憶するために

時が過ぎ、かつて囚われていた人々は、こうした状況で収容所に生きる人々(難民)が依然としていることが信じられない思いで収容所の跡地に記念しようと結束した。

ディスプレイは2003年に再構築されたもので、収容所の見学順路に置かれており、著名な囚人が何名か紹介されている。記念碑建設の際には元の建屋の状況が酷かったために、建屋が二つ再建され、収容所の歴史が遍く見られるようになっている。残りの28棟は、コンクリートの土台で場所を示している。

跡地には囚人が信仰した様々な宗教のために礼拝堂が4つある。地元政府は跡地の完全利用に抵抗した。かつて収容所に隣接していたSSの建屋は現在、機動隊 (Bereitschaftspolizei) が使用している[27]
組織収容所の航空写真1945年の囚人棟

収容所は収容区域と火葬場の2区間に分かれていた。収容区域は32棟あり、ナチスの統治に反対して収監された聖職者用の棟が一棟と医学実験用に確保された一棟があった。収容施設と中央の調理場を結ぶ中庭は、囚人の略式処刑に利用された。高電圧の鉄格子、排水溝、七箇所の監視所のついた壁が、収容所の周囲を囲んでいた[28]

1937年前半に、囚人を働かせていたSSは元々収容所があった場所に大きな複合建造物の建設を開始した。古い焼却場の解体を手始めに劣悪な環境で囚人はこの作業に駆り出された。


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