ダダイスムに立脚した写真表現も存在する。第一次大戦と続く第二次大戦を通じて形成された虚無感を背景に、常識や秩序に対する否定や破壊といった感覚を表現の基調とする。
ダダと呼べるような写真作品を残している代表的な写真家・美術家に、マン・レイ、クリスチャン・シャド、マックス・エルンスト、ジョン・ハートフィールド、クルト・シュヴィッタース、ハンナ・ヘッヒ、ラウル・ハウスマン、北園克衛などが挙げられる。
ダダに特に多い写真表現としては、フォトモンタージュがある。単に写真を切り貼りしたというコラージュというような作品から、より緻密に1枚の作品に仕上げているものまであり、後者の作品は、シュルレアリスムの写真へもつながっていく。複数の写真を組み合わせることにより、比較的に容易に意外性を生じさせたり社会風刺ができるところに、ダダイストたちがフォトモンタージュを好んだ理由の一つがあると推測される。ドイツの画家ハンス・リヒターは、1910年代半ばから1920年代にかけて、ダダイスム映画作品も手がけている。 1920年(大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイスム一面観」が掲載される[4]。高橋新吉が1921年(大正10年)11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる[5]。1922年(大正11年)12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊[6]。翌1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤、川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋が「DADAは一切を断言し否定する」との一文から始まる詩集『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社)を発表する(編集は辻が担当した)[7]。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らが「MAVO」を結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム
日本におけるダダ