ダダイスム
[Wikipedia|▼Menu]


ロシア - ロストフ・ナ・ドヌで文芸集団「ニチェヴォキ(ロシア語版)」が結成され、1922年にボリシェビキのプロパガンダ作成をしていたウラジーミル・マヤコフスキーに対してトベルスコイ通り(ロシア語版、英語版)のプーシキン像へ行って靴磨きを見るように勧め、「プーシキン運動」(Pampushka)を提案し、1923年レフ結成に影響を与えた。マヤコフスキーはロシア・アヴァンギャルドの詩・文学を主導した。

ハンガリー - カシャーク・ラヨシュ(ハンガリー語版、英語版)、Dery Tibor、モホリ=ナジ・ラースロー、Barta Sandorなど。ネオアヴァンギャルド(ハンガリー語版)(ハンガリー・アヴァンギャルド)が派生し、バウハウスの教育(合理主義・機能主義)に影響を与えた。

オーストリア - H. C. Artmann、Friedrich Achleitner、Konrad Bayerなど。ヴィーナー・グルッペ(ドイツ語版、英語版)が派生。

日本(1921年 - 1925年) - 辻潤清沢清志高橋新吉吉行エイスケMAVO(1923年-1925年)の柳瀬正夢村山知義尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎、高見沢路直(田河水泡)、『赤と黒』の萩原恭次郎壺井繁治岡本潤川崎長太郎、林政雄、小野十三郎

写真・映画

ダダイスムに立脚した写真表現も存在する。第一次大戦と続く第二次大戦を通じて形成された虚無感を背景に、常識や秩序に対する否定や破壊といった感覚を表現の基調とする。

ダダと呼べるような写真作品を残している代表的な写真家美術家に、マン・レイクリスチャン・シャドマックス・エルンストジョン・ハートフィールドクルト・シュヴィッタースハンナ・ヘッヒラウル・ハウスマン北園克衛などが挙げられる。

ダダに特に多い写真表現としては、フォトモンタージュがある。単に写真を切り貼りしたというコラージュというような作品から、より緻密に1枚の作品に仕上げているものまであり、後者の作品は、シュルレアリスムの写真へもつながっていく。複数の写真を組み合わせることにより、比較的に容易に意外性を生じさせたり社会風刺ができるところに、ダダイストたちがフォトモンタージュを好んだ理由の一つがあると推測される。ドイツの画家ハンス・リヒターは、1910年代半ばから1920年代にかけて、ダダイスム映画作品も手がけている。
日本におけるダダ

1920年大正9年)『万朝報』8月15日号に記事「ダダイスム一面観」が掲載される[4]高橋新吉1921年(大正10年)11月に辻潤宅を訪問し、ダダについて辻に教示し、辻はダダイストを名乗るようになる[5]1922年(大正11年)12月『ダダイズム』を 吉行エイスケが発刊[6]。翌1923年(大正12年)1月には萩原恭次郎壺井繁治岡本潤川崎長太郎らが『赤と黒』を創刊。同年2月には 高橋が「DADAは一切を断言し否定する」との一文から始まる詩集『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社)を発表する(編集は辻が担当した)[7]。同年7月には村山知義、柳瀬正夢、尾形亀之助らが「MAVO」を結成し、翌年6月には『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が玉村善之助、橋本健吉、野川隆らによって創刊される。日本では1922年(大正11年)から1926年(大正15年)がダダ運動のピークとなった。以降も、ダダイスムは中原中也坂口安吾宮沢賢治など広範にわたって影響を与えた[8]

辻潤 - 高橋よりダダイスムの運動を知り、自らをダダイストと名乗る。

『ダダイズム』(1922年12月 - 1923年?) - 吉行エイスケ発刊。

『赤と黒』(1923年1月 - 1924年6月) - 萩原恭次郎壺井繁治岡本潤川崎長太郎、林政雄、小野十三郎など。

高橋新吉 - 1923年、詩集『ダダイスト新吉の詩』(中央美術社)を発表。

MAVO (1923年7月 - 1925年) - 村山知義柳瀬正夢尾形亀之助、大浦周蔵、門脇晋郎の5名が代表メンバー。高見沢路直(田河水泡)ものちに参加。

『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』(1924年6月 - 1926年1月) - 編集人は玉村善之助、橋本健吉、野川隆


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:65 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef