ダイハツ・ミゼット
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エンジンはZA型強制空冷2ストローク単気筒249 ccガソリンで最初期型となるDKA型のスペックに関しては最高出力は8馬力を発生、最高速度60 km/h、燃料消費率は1Lあたり28km/L(カタログ値)であった。最大積載量は300 kgで車両総重量は306 kgである[3]。ラインアップは登場当初は基本型となるDKA型、およびセル付仕様のDKII型のみのラインアップだったが、1959年(昭和34年)にはDKII型を基本にエンジンの最高出力を10馬力に強化し、サイドドア付キャビン仕様に改めたDSA型、DSA型を基本に荷台部分を箱型にしたライトバンのDSV型、DSA型を基本に2人乗車を可能とし、荷台の奥行を短縮させたDSAP型が追加された。丸ハンドルミゼットことMP型が登場後も当面の間、バーハンドルミゼットは販売価格を引き下げて併売されていたが後述するMP4型の発売開始に伴い、1961年(昭和36年)末までに販売終了となった。
MP型

ダイハツ・ミゼットMP
(丸ハンドルモデル)
ダイハツ・トライモービル
(北米仕様)
ミゼットMPA型
(1959年販売型、画像は沖縄仕様
ミゼットMP5型
(1969年8月改良型)
ミゼットMP5V型
(1962年12月販売型)
概要
販売期間1959年10月-1972年1月
ボディ
乗車定員2人
ボディタイプ軽3輪トラック
軽3輪ライトバン
駆動方式FR
パワートレイン
エンジンZD型 空冷 2ストローク 305cc 単気筒
変速機3MT
前前:テレスコピック+フォーク
後:リジッドアクスル+リーフスプリング
後前:テレスコピック+フォーク
後:リジッドアクスル+リーフスプリング
車両寸法
ホイールベース1,905mm
全長2,970mm
全幅1,295mm
全高1,455mm
車両重量415kg
その他
データモデルミゼットMP5型
製造事業者旭工業
(1970年まで)
系譜
先代ミゼットDK/DS
後継4代目ハイゼット(S38型系)に統合
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MPA/MPAV型(北米仕様):1959年
MP2/MP2V型:1959年
MP3/MP3V型:1959年 - 1960年
MP4/MP4V型:1960年 - 1962年
MP5/MP5V型:1962年 - 1972年

通称「丸ハンドルミゼット」。1959年(昭和34年)4月に北米向け(現地名:Daihatsu Tri-Mobile)、および、当時米国の統治下にあった沖縄向けの各種左ハンドル仕様のMPA型として先行発売され(ただし北米向けは800台の限定生産・販売)、同年10月よりMPA型の意匠はそのままに右ハンドル仕様に改めた日本国内向けのMP2型として発売を開始した。特徴はの形状を連想させるノーズ部分と一体化されたキャビンであり、DK・DS型と比べてスタイリッシュになった。ドアが装着され、ルーフはMPA型からMP4/MP4L型までは幌が用いられていたが[注釈 3]、MP5/MP5L型以降からは鋼板製のクローズド・ルーフとなった。ハンドルはDK・DS型のバーハンドルから丸ハンドルへと変更され、さらに運転がしやすくなった。車体寸法は全長2,970 mm、全幅1,295 mm、全高1,455 mmと全長と全幅がサイズアップされている。また全車セパレートシートを装備し、2人乗車が可能となった[4]

ラインナップは当初、既存のDS型系、およびMPA型系ミゼット用とほぼ同性能のZA型エンジンを搭載したMP2型が投入されたが、車両重量がDS型に対し100kg近く増加し、結果的に動力性能に不満を持ったユーザーも決して少なくなかったため投入から僅か2か月後の同年12月に新開発のZD型エンジンを搭載したMP3型へ移行し、既存のMP2型は僅か2か月程度で生産・販売終了となった。1960年(昭和35年)5月にはMP3型を基に全長を200 mm延長し、荷台のサイズを拡大し、最大積載量300kgから350kgへ変更し、サイドドアの窓が上下に昇降可能(レギュレーターハンドル付)になったMP4型へ移行。1961年(昭和36年)にはパキスタンノックダウンによる現地生産が開始された。1962年(昭和37年)12月にはMP4型を基に更に荷台を100 mm延長し、混合燃料から分離給油[注釈 4]に改良され、フェンダー一体型フロントノーズの形状、およびサイドベンチレーター、キャビン、室内、荷台などが大幅に変更・改良されたMP5型へ移行した。また、1969年(昭和44年)8月にはMP5型の一部改良に伴い、灯火器及び反射器等に関する法規に対応するためヘッドランプの左右側面にサイドターンシグナルランプ、二点式シートベルト、ヘッドレスト(運転席のみ)を追加装備し、更にフロントウインドウ直下のターンシグナルランプをホワイトレンズのまま大型化した[注釈 5]

軽自動車の分野でも市場の主流は、3輪のミゼットから4輪のハイゼットに移行・統合し、1971年(昭和46年)12月を以って最後の受注分の生産を全て完了し、1972年(昭和47年)1月31日を以って販売を終了した。同社としては最後のオート三輪となり、製造終了までに従来型のバーハンドル仕様車(DK/DS型)を含め、国内向け仕様が317,152台が、輸出仕様が19,382台がそれぞれ生産されたが、この当時米国の統治下にあった沖縄にも左ハンドル仕様としてごく少数が輸出されたほか、輸出仕様全体の約半分が東南アジア方面に輸出された。その中でもタイには大量に輸出され、その大部分が「トゥクトゥク」と呼ばれるタクシーとして運用されていた[6]
脚注[脚注の使い方]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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