1978年、ドイツのケルン動物園に贈る2頭の若いゴリラをつかまえようとした際には、成獣20頭が殺された。目当ての2頭は怪我を負い、公園保護官の要請で治療のためフォッシーのもとにに預けられた。だがフォッシーの抗議にもかかわらず、2頭はドイツに送られ、9年後に死亡した。
当初、フォッシーの調査対象のグループのゴリラは密猟対象にならなかったが、1978年になると幼児も成獣も密猟者によって殺された。観光による振興を求める人々とフォッシーの間には、次第に対立が生まれて行った。 ゴリラは人間の伝染病に免疫を持たないことが多かったため、フォッシーは野生動物目的の観光に反対した。伝染病によるゴリラの死を報告し、観光は自然に対する干渉であると非難した。動物保護団体が主催する見学ツアーにも反対で、調査妨害だしゴリラの平穏な生活を侵害するものだと非難した。 フォッシーの運動により、保護区域は標高3000mの地域から2500mまで下げて拡大された。 1977年、フォッシーのお気に入りのゴリラであるディジットが、群れを守ろうとして密猟者に殺された。ディジットの手は切り取られ、灰皿として売られた。フォッシーのアシスタントが捕えた密猟者は、服役が決まっった。フォッシーは密猟を妨害するためにディジット基金 フォッシーは、最初のアフリカ旅行でアレクシス・フォレスターと出会って婚約した。後に既婚者の写真家ボブ・キャンベル 1985年12月27日、小屋の寝室で斬り殺された姿が発見された。小屋の壁には穴が開き、貴重品も現金も盗まれてはいなかった。遺言書には、製作予定の劇場映画から得る収益も含めて全財産をディジット基金に寄付すると書かれていたが、証人となる家族の共同署名はなかった。後の裁判で遺言は無効とされ、フォッシーの母が遺産を相続した。 全スタッフが逮捕され取り調べを受けたが、牢内で自殺した一人を除いて全員が釈放された。 後に、ルワンダの法廷はすでにアメリカに帰国していたスタッフのウェイン・マクガイアを不在のままで有罪とする判決を下したが、マクガイアが服役することはなく、その判決の真否は後に論議の的となった。 フォッシーはゴリラのメスがグループ間を移動すること、ゴリラの発声の解析[4]、グループ内の個体の階層やグループ間の関係、子殺し、食事などを観察して発表した。 フォッシーの死後、ディジット基金 (Digit Fund) はダイアン・フォッシー国際ゴリラ基金 まだ無名時代のボブ・キャンベルは『ナショナル ジオグラフィック』誌の依頼で1969年、フォッシーを取材し撮影に取り掛かると、誌面を飾った写真を通じて1970年と翌年に大きな評判を呼ぶことになる。アフリカ学を率いるフロリダ大学はキャンベル撮影による動画やカラースライドの遺贈を受け、ジョージ・スマザーズ図書館に保管しオンラインで公開している[5]。またフロリダ自然史博物館はキャンベルの写真素材を使い、直近で2019年にフォッシーとゴリラ保護活動を振り返るマルチメディア型の『霧の中のゴリラ:ダイアン・フォッシーの遺産』展を開いた[6]。 映画『愛は霧のかなたに』(1989年) - シガニー・ウィーバーがフォッシーを演じた[7]。 by Dian FosseyArticle ArticleLanguage: English Publication: Animal Behaviour, v20 n1 (197202): 36-53 Animal Behaviour, volume 22, no.3 (197408): pp.568-581. 卒業論文、1976年。
野生動物の観光に反対
生活圏の保護
ディジット基金
私生活
死
死の余波
科学的業績
死後
登場する作品
主な著作
Vocalizations of the mountain Gorilla (Gorilla gorilla beringei)
"Observations on the home range of one group of mountain gorillas (Gorilla gorilla beringel)".
"The behaviour of the mountain gorilla."
"Dixson, A. F. The natural history of the gorilla. New York: Columbia University Press. 1981." (1982-08) American Journal of Physical Anthropology, vol.58 no4, pp.464-465. 書評
Gorillas in the mist, Houghton Mifflin
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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