ダイアナ・ミットフォード
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ナンシーは小説Wigs on the Greenを書き、モズリーとその信念をからかった。1935年にこの小説が出版された後、姉妹の間柄は悪化して付き合いがほぼなくなり、1940年代半ばになってやっとダイアナとナンシーは仲直りした[10]

ダイアナとオズワルドのモズリー夫妻はスタッフォードシャーカントリー・ハウスであるウットン・ロッジを借りることにし、ダイアナは最初そこを買い取るつもりだったダイアナは新居の大部分に、父が売りに出したスウィンブルックの家具を据え付けた[11]。モズリー夫妻は1936年から1939年まで子供たちとウットン・ロッジに住んでいた。
第三帝国

1934年にダイアナは当時19歳だった妹ユニティとともにドイツに行った。ドイツ滞在中、2人はナチスの権力掌握後、ニュルンベルクで第1回ナチ党党大会に参加した。ヒトラーの友人だったユニティは1935年3月にダイアナをヒトラーに紹介した。その年の末、2人は第2回党大会に再び出席し、ヒトラーの来賓としてもてなしを受けた。1936年には、ヒトラーはベルリンオリンピックにダイアナを案内するためメルセデス・ベンツを提供した。ダイアナはヴィニフレート・ワーグナーマクダ・ゲッベルスとも互いによく知り合うようになった。

ダイアナとオズワルドは1936年10月6日、ナチスの宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルスの家の応接間で秘密裏に結婚した。アドルフ・ヒトラー、ロバート・ゴードン・キャニング、ウィリアム・アレンが出席した[12]。結婚は1938年に第1子が生まれるまで秘密にされていた。1939年8月に、ヒトラーはダイアナと昼食をともにし、戦争が不可避だと述べた。アルベルト・シュペーアは回顧録『第三帝国の内幕』で、ダイアナは常にイングランドを弁護し、しばしばヒトラーに平和裏の解決を嘆願していた[13]。『デイリー・テレグラフ』の訃報によると、ダイアナが所有していた宝石の中にはダイヤモンドハーケンクロイツもあったという[14]

モズリーとダイアナには息子が2人いた。1938年11月26日にアレクサンダーが、1940年4月13日にマックスが生まれ、マックスはやがて国際自動車連盟会長を16年つとめた。ヒトラーはモズリー夫妻に、銀で額装した自身の肖像を送った。モズリー夫妻は第二次世界大戦中、防衛規則18Bにより、ノラ・イーラム他イギリスのファシストたちと同様、ほとんどの期間は収監されていた[15]

2002年に公開されたMI5の文書には、レディ・モズリーとその政治的傾向について、「夫よりもはるかに賢く危険」だという報告が掲載されていた[16]。1940年6月29日、4人目の息子マックスが生まれた11週後、ダイアナは逮捕された。警察が逮捕のため踏み込んで来た時、ダイアナは急いでマックスのベッドマットの下にヒトラーの写真をしまったという。その後ダイアナはロンドンのホロウェイ女子刑務所Fブロックに収監された。ダイアナと夫はMI5の勧告で、18Bの規定により、告訴や裁判なしに収監されていた。当初夫妻は別々に収監されていたが、ウィンストン・チャーチルが個人的に介入し、1941年12月にモズリーとその他2名の18B規定で収監された夫たち(そのうちひとりはモズリーの友人H・W・ラットマン=ジョンソン)はホロウェイで妻たちと暮らすことを許可された。3年以上の収監の後、1943年11月にモズリーの健康問題を理由に釈放された。モズリー夫妻は戦争終結まで自宅軟禁となり、1949年までパスポート発行が禁止された[17]

ダイアナは、刑務所に収監されても人生に対する態度を変えなかった。後年ダイアナは、刑務所の庭で育てたよりも美味しい野生のイチゴは育てられなかったと述べた。刑務所暮らしを選んだわけではなかったが、ホロウェイに投獄された他の女性に比べると自分の区画はましなほうだと言っていた。オズワルドは後にこのことをダイアナの妹ナンシーに言っており、ナンシーは自作の小説Love in a Cold Climateにこの話を使った[18]
戦後

戦後、モズリー夫妻はアイルランドの家をそのまま使い続け、ロンドンとパリにもアパートを持った。以前の主教邸宅を最近改修したばかりだったクロンファートの家は失火で焼けてしまった。その後、夫妻はコーク県ファーモイの近くにある家に引っ越した。その後、フランスに永住するようになり、1950年にパリの南東のオルセーにあるパッラーディオ建築の神殿風邸宅であるタンプル・ド・ラ・グロワールに居を構えた。ガストンとベッティーナのバージェリー夫妻が、モーズリー夫妻にこの地所が売りに出ていると教えた。ウィンサー公爵エドワードとウィンザー公爵夫人ウォリスは近くの町であるジフ=スュル=イヴェットに住むようになったため、隣人としてモズリー夫妻と親しく付き合うようになった[19]

モズリー夫妻は再び社交的なもてなしで知られるようになったが、イギリス大使館の行事からは全て閉め出されていた。フランスで暮らす間、モズリー夫妻はひっそりともう一度結婚式をあげた。ヒトラーは夫妻の結婚許可証原本を隠して保管しており、戦後に見つからなくなってしまったからであった[20][21]。この時期、モズリーはダイアナに忠実とは言えなかったが、ダイアナは夫の不倫についてそれほど動揺しないようにしていた。疎遠になった後、ダイアナと妹のジェシカは一度だけ連絡を取ったが、それは2人とも姉のナンシーの看病にかかわろうとしていた時のことだった[22]。ナンシーはヴェルサイユにおり、ホジキン病で闘病生活を送っていた[22]。1973年にナンシーが亡くなった直後から、2人は一切連絡をとらなくなった。

イギリスに対する忠誠心、ファシズムへの強い傾倒、ユダヤ人に対する態度などについて語る際、時としてダイアナははっきりしないそぶりを見せた。しかしながら、時として強い反ユダヤ主義をのぞかせるようなふるまいをすることもあった。ジャーナリストのポール・カランは、ダイアナがいるところで夫のオズワルドにインタビューした際、自分がユダヤ人だと述べたらダイアナが部屋を出て行ってしまったと述べている[6]

他方、1989年にダイアナはBBCラジオ4の番組である『デザート・アイランド・ディスクス』に招かれ、スー・ローリーとともに出演した。ダイアナはこの時、ヒトラーによるユダヤ人の絶滅政策が事実であったことを戦後「相当しばらく」たつまで信じていなかったと述べて批判を受けた。さらにダイアナは、今は信じているのかと聞かれて、600万人というのは「想像できない」数字だと考えられ、信じられないと答え、「600万だろうが100万だろうが道徳的には変わりません。同じくひどいことです。恐ろしく邪悪なことだと思います」とも答えた[23]。『デザート・アイランド・ディスクス』でダイアナが選んでかけてもらった音楽は、モーツァルトの『交響曲第41番』、ヴィンチェンツォ・ベッリーニの『ノルマ』より「清らかな女神」、ベートーヴェンの「歓喜の歌」、リヒャルト・ワーグナーの『ワルキューレ』と『トリスタンとイゾルデ』より「愛の死」、ビゼーの『カルメン』より「ハバネラ」、プロコル・ハルムの「青い影」、フレデリック・ショパンの「ポロネーズ第5番嬰ハ短調」であった[24]


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