タン塩
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味付けは「塩」のほか「タレ(醤油タレ)」「味噌」も定番になっている。これを冷蔵庫で数日間取り置いて味を馴染ませてから用いる。

なお、牛の舌の付け根付近は、生育法によっては霜降り状になるので、その部分を「芯タン」・「トロタン」などと呼び、一般の牛タンとは別メニューで供する店もある。
牛タン定食・牛タン丼ある牛タン専門店の牛タン定食の例。中央に牛タン焼き、その左に浅漬けとみそ南蛮、左下に麦飯、右下にテールスープ、右上に牛佃煮が並ぶ。

仙台の牛タン料理専門店では、以下のようなセットメニューを「牛タン定食」「牛タン焼き定食」と呼ぶことが一般的である。

牛タン定食構成要素説明メニュー成立当時の事情
牛タン焼き塩味・タレ(醤油)味・味噌味ほかエネルギー革命前のため炭火焼
麦飯白米に少量の麦を入れて炊いたものコメ不足[注 2]
脚気対策[注 3]
テールスープ牛の尾部を塩味で茹で、刻み葱を入れたもの。不明
みそ南蛮唐辛子味噌漬け佐野の出身地・山形県の伝統料理
浅漬け複数の野菜(白菜・キャベツ・胡瓜など)が入る。電気冷蔵庫[注 4]の普及前

なお正調では、みそ南蛮には山形産唐辛子を用いるともされる。サイドメニューとして、麦飯にかけるとろろ麦とろ)が用意されている店も見られる。

牛タン焼き等を載せたどんぶりめし(麦飯とは限らない)を「牛タン丼」として供する店もある。この場合、「牛タン定食」の全ての要素がセットされているとは限らない。
牛タン弁当

駅弁としても販売されている。「牛タン丼」のようにごはんの上に牛タン焼きが載せられている場合と、別々に分けられている場合とがある。

加熱式と非加熱式がある。加熱式の場合は、二重容器の底部に発熱剤が入っていて、紐を引くと弁当が加熱される。
その他

牛タン焼き以外のメニューとして、加熱した牛タンを用いるタンシチュー、牛タンカレーつくね、スープで煮た「ゆでタン」、客が自分で加熱する牛タンしゃぶしゃぶ、さらに生のままの牛タンを用いたタン刺しや牛タン寿司などを取り揃える店もある[注 8]。また、ひつまぶしのように、牛タン焼きが載せられた御櫃から取り分けて、温泉卵をまぶしたり、だし汁等を加えたりすることもある。

お土産物用として牛タン焼きのほか、牛タンの燻製佃煮等がある。
歴史

戦後占領期仙台市街地における外食産業は、宮城県内に終戦後1ヶ月程度で約1万人にまで急増した、仙台空襲後の当地においては経済的に富裕層にあたる進駐軍GI(ほとんどが当時人口50万人程度(現在は150万人超)の仙台都市圏に集住)を主要な客として急激に発達したX橋周辺や苦竹キャンプ周辺の歓楽街以外にも、日本人向けに戦前からの和食・中華・洋食の店舗や小田原蜂屋敷の遊廓仙台駅前(西口)周辺に非合法ながら大規模に発生した闇市屋台の街、そして明治維新後に国分町に取って代わって繁華街となった東一番丁(現・一番町)の諸所にあった焼き鳥屋[注 9]、豚のホルモン焼きを出す「とんちゃん屋」など様々存在した[6]

このような中で東一番丁(現・一番町)の焼き鳥屋(主に夜に客が多い居酒屋)の主人・佐野啓四郎(山形県出身)は、1930年代に師事していたフランス人シェフより牛タンの旨さを説かれ自ら研究を重ねており[7]、タンシチューより着想して、タンを薄い切り身にして塩焼きするという調理法を考案した。


仙台の牛タン専門店の推移[8]

当初は仙台では豚タンが主流であったため[6]、佐野の牛タン焼きはそれほど市民に人気があるわけではなかった。もともとが外食から生まれた料理であり、家庭で食べられることは殆どない。むしろ珍味の扱いで、一部の愛好者や酔客が「締め」に食べる程度だった。やがて高度経済成長期になって、他都市から仙台への転勤族や単身赴任者が増えると、昼食時や夜の街で仙台牛タン焼きの味を知り、仙台赴任からとりわけ東京に戻ったサラリーマンの間で仙台牛タン焼きは評判になった。また、牛タンの高蛋白質の割に脂肪が少ないことがマスメディア等で紹介され、ヘルシー志向の人たちのみならず国民全体に牛タンが受け入れられていった。このような流れに乗って仙台牛タン焼きも有名になっていった。

仙台牛タン焼きは、旅行の一般化によって観光客たちの食べるところとなり、また、外食の一般化によって仙台市民も食べるところとなったが、最大の転機は、1980年代半ばに広まった米国産牛タンやそのムキタンの利用である。以前は老舗タン焼き店の利用していた豪州産の骨付き皮付き牛タン (Short cut tongue) が主流であったが、霜降りかつ歩留まりがよい米国産の骨なしタン (Swiss cut tongue) や既に皮を剥いてカットするだけのムキタン (Peeled tongue) が主流になり、これ以後暖簾分けや新規参入がし易くなったため牛タン焼き店が増えた。また、同時期に仙台駅内のお土産販売や新幹線車内での販売が始まった事から一気に仙台名産となった。
年表

1915年大正4年)1月7日山形県西村山郡西里村(現・河北町)にて、農家の次男として佐野啓四郎が生まれた[9](以下、当項目において年月日不明)。西里尋常高等小学校(現・河北町立西里小学校)尋常科を卒業すると東京府(現・東京都)に上京し、専ら輸出品だった洋傘(コウモリ傘)の製造会社に就職[9]。20歳の時に郷里に戻って徴兵検査を受けた後、山形県山形市の魚屋に奉公に出た[9]。その後、宮城県仙台市仙台ホテルの料理店の下働きとなって料理の世界に入り、東京の万屋組合から派遣されてきた同郷の人の導きで上京して、芝浦の割烹料理屋「梅屋」で住み込みで働いた[9]。この時、毎朝築地市場に買い出しに行く中で知り合った中華料理・洋食・和食の各店で働く人々との交流において牛タンや牛テールの美味しさを知らされた[9]。在京中にフランス人シェフがいる洋食屋にてタンシチューを食する機会があったが、そのままでは日本人の口に合わないと感じたという[9]。その後、仙台に戻って割烹「お照」や仕出屋「魚親」の料理人として働くも、岩手県花巻市や宮城県白石市の料亭を転々とした[9]

1941年(昭和16年)12月8日太平洋戦争が始まった。

1942年(昭和17年)になると卸売において統制が始まり、料理の材料が思うように仕入れることが出来なくなった。

1942年(昭和17年)?1944年(昭和19年)3月、徴用された佐野は宮城県柴田郡船岡町(現・柴田町船岡)の第一海軍火薬廠に配属となったが、明け番の日は商売をしても良い職場だったため、船岡で焼き鳥屋を始めた[9]

1945年(昭和20年)

7月10日第二次世界大戦における仙台空襲により、仙台市都心部が焼け野原になった。

8月15日終戦。これを機に佐野は仙台に移り、東一番丁(現・青葉区一番町3丁目)のキリンビヤホールの隣に「グリル番丁」(昼は喫茶、夜は一杯飲み屋で焼き鳥専門)を開店した[9](開店年月日は不明)。物資不足の中、牛タンの調理法やテールスープの作り方の研究を始めた[9](牛タン焼きやテールスープを客に出し始めた詳しい年月日は不明)。


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