タンパベイ・レイズ
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まず、1913年にシカゴ・カブスがタンパにキャンプ地を移したといわれ、1922年にはボストン・ブレーブスもセントピーターズバーグでキャンプを行うようになった。以来、多くの球団が両都市をキャンプ地として選び、地元に多くの野球ファンを生み出すこととなる。MLBのキャンプ地があるのはフロリダ州とアリゾナ州のみであり、フロリダ州には17球団がキャンプ地を構え、グレープフルーツリーグと呼ばれるオープン戦が行われている。

その後、地元にはフロリダ・ステートリーグと呼ばれるマイナーリーグチームも存在していたが、1980年代に入ると、MLBチームを誘致しようとする動きが活発となる。1990年にはドーム球場であるフロリダ・サンコースト・ドーム(現在のトロピカーナ・フィールド)が開場した。この頃、MLB機構は球団拡張の計画に付いて1993年シーズンに実行する予定があることを発表した。この計画を受け、地元にMLBチームが誕生することが期待されたが、結局はデンバーコロラド・ロッキーズ)とマイアミフロリダ・マーリンズ)にフランチャイズ権が与えられた。1992年には、サンフランシスコ・ジャイアンツのオーナーだったボブ・ルーリが、マイク・ピアッツァの父親であるビンス・ピアッツァらが代表を務めていたフロリダに拠点を構えていた投資家グループに球団を売却し、地元セントピーターズバーグに本拠地を移す計画を立てた。しかし、この計画もMLB機構やサンフランシスコ住民の反対によって実施されなかった。

1995年、MLB機構は再び球団拡張を実行することに決定した。フランチャイズ権がフェニックスアリゾナ・ダイヤモンドバックス)と共にセントピーターズバーグにも与えられ、MLBチームが誕生することになった。これによって新球団の設営が急がれることに成り、チャック・ラマーが球団社長兼GMに就任。球団名は「タンパベイ・デビルレイズ」に決定した。これに伴いフロリダ・サンコースト・ドームも野球専用球場に改修され、それまで同球場を本拠地としていたNHLタンパベイ・ライトニングAFLのタンパベイ・ストームもそれぞれ本拠地を移した。1997年には球場名もネーミングライツを獲得したトロピカーナ社によってトロピカーナ・フィールドに変更。同年には名投手コーチとして知られているラリー・ロスチャイルドが初代監督に任命され、同年のエクスパンション・ドラフトによって35人の選手を獲得した。
長期低迷のデビルレイズ時代

1998年3月31日、本拠地トロピカーナフィールドにおいて、対戦相手にデトロイト・タイガースを迎え、チーム初試合を行った。開幕投手は左腕ウィルソン・アルバレスが務め、ウェイド・ボッグスがチーム初本塁打を放つなどの活躍を見せたが、試合は6対11で敗れた。この時のデトロイト・タイガースは同じく左腕のジャスティン・トンプソンだった。しかし、翌日の試合で初勝利を挙げると、そのまま白星を重ね、19試合を終えた時点で11勝8敗のスタートを切った。しかし、地力の差が出始めたのか、シーズン中盤になると負けが込むようになり、6月30日からは泥沼の11連敗。その後は最下位でシーズンを過ごし、最終的に首位ニューヨーク・ヤンキースと51ゲーム差の63勝99敗でシーズンを終えた。そしてこれ以降、2003年まで6年連続で最下位のシーズンが続くことになる。

1999年にはホセ・カンセコが加入し、34本塁打、95打点を記録した。また、シーズン途中の8月7日には、本拠地トロピカーナ・フィールドで、ボッグスが通算3000本安打を本塁打で記録した。ボッグスは同年限りで引退を表明し、2005年には野球殿堂入り、引退の翌年には背番号である「12」がチームの永久欠番に指定された。またこの年、35歳の高齢でメジャーの入団テストを受け、2年間デビルレイズに所属したジム・モリスの活躍は、後年「オールド・ルーキー」(The Oldest Rookie)というタイトルで映画化されている。
2000年代

2000年には打線の迫力不足を解消するために、ビニー・カスティーヤグレッグ・ボーンを獲得した。これで、カンセコ、カスティーヤ、ボーン、フレッド・マグリフというシーズン35本塁打以上を記録したことのある選手4人が揃ったことから、強力打線を売りにして最下位からの脱却を図った。しかし、マグリフが及第点の成績を残した以外はいずれの選手も故障や不振などで期待を大きく裏切り、チームは69勝92敗で3年連続の最下位に終わった。

2001年は開幕から4勝10敗という成績不振により、4月18日に球団はロスチャイルド監督を解任。後任にはベンチコーチだったハル・マクレーがそのまま監督に就任した。この頃にはランディ・ウィンオーブリー・ハフといった若手選手が台頭し始め、2002年には弱冠20歳のカール・クロフォードがメジャーデビューを果たした。しかし、チームの勝利にはつながらず、2001年は62勝100敗を記録した。

2002年には球団史上ワースト記録となる14連敗を喫するなど、球団史上ワーストとなる55勝106敗を記録し、マクレー監督もこの年限りで解任された。

2003年には前年までシアトル・マリナーズを率いていたルー・ピネラが監督に就任した。この年も最下位だったが、同年にはロッコ・バルデッリがメジャーデビューし、新人王投票で3位にはいる活躍を見せた。また、クロフォードが55盗塁を記録し、球団初の個人タイトルとなる盗塁王を獲得している。

2004年は70勝91敗ながら球団新記録となる12連勝などもあり、地区4位でシーズンを終え、球団史上初めて最下位を脱出した。同年にはB.J.アップトンが19歳という球団史上最年少でメジャーデビューを果たしている。シーズン途中には開幕投手を務めたビクター・ザンブラーノらとニューヨーク・メッツスコット・カズミアーとのトレードを行い、カズミアーはシーズン終盤にメジャーデビューを果たした。

2005年は実質1年目のカズミアーが10勝9敗、防御率3.77、174奪三振とエース級の働きを見せた。また、この年には野茂英雄も在籍し、NPB/MLB通算200勝を達成している。しかしチームとしては67勝95敗で再び最下位に沈み、ピネラ監督も4年契約の1年を残したまま辞任した。この年のMLBドラフト4巡目でジェレミー・ヘリクソンを指名している。

2006年には、経営陣・GM・首脳陣の大幅な入れ替えを断行。GM兼副社長には、元エリートの銀行マンで28歳のアンドリュー・フリードマン、監督には前年までロサンゼルス・エンゼルスでベンチコーチを務め、監督であったマイク・ソーシアの参謀役として2002年のワールドシリーズ優勝に貢献したジョー・マドンが就任した。しかし、球団創設以来の弱点である投手陣の弱さは致命的で、開幕から最下位が続き、61勝101敗と4年ぶりの100敗シーズンとなった。この年はホームでは41勝40敗と勝ち越したが、アウェイでは20勝61敗と大きく負け越した(アウェイの成績は1961年以降ではMLBワーストの成績だったが、2010年のピッツバーグ・パイレーツが更新した)。

2007年には、ポスティングで東京ヤクルトスワローズから岩村明憲が加入し、ボストン・レッドソックスから加入したカルロス・ペーニャが46本塁打・121打点と大爆発し、本塁打・打点・四球・出塁率・長打率の球団記録を塗り替えた。他にもクロフォードがMLB史上7人目となる5年連続での打率上昇(250打席以上)を記録。チームとしては5月初めまでは地区2位に食い込む健闘を見せたが、7月に大きく負け越し、最終的に66勝96敗で最下位に終わった。原因はやはり投手陣で、防御率・失点などの数字で軒並みリーグワーストを記録。特に先発以降は壊滅状態で、リリーフ陣の防御率6.16という成績は、過去50年間でMLBワーストであった。しかし、カズミアーが3年連続二桁勝利となる13勝と239奪三振で最多奪三振を獲得、ジェームズ・シールズがメジャー2年目にして12勝を挙げるなど若手先発投手が成長したシーズンでもあった。
タンパベイ・レイズ時代
レイズ旋風

2007年11月に球団名を「タンパベイ・レイズ」に変更するとの発表がなされた。これに伴い、球団イメージもこれまでのエイ(Devil ray)から、光線(Ray)に変更され、ユニフォームやロゴも一新、チームカラーはこれまでの緑と白からネイビーと薄い青色に変更された。


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