タンザニア
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7世紀にアラビア半島イスラーム教が成立したあと、アラブ人ペルシア人が東アフリカのインド洋沿岸部に渡来し、スワヒリ文明を築きあげた。10世紀ごろから16世紀初頭にかけて、タンザニアにはキルワ島マフィア島バガモヨなどのスワヒリ都市が栄えた。
ポルトガル領時代

1498年ポルトガル王国の航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼしたあと、東アフリカの各地を制圧した。
オマーン帝国時代

アラブ勢力の拡大にともない、ポルトガル勢力はオマーンによって1698年に現在のタンザニア領から駆逐され、南方のモザンビーク島にまで撤退した。その後、19世紀に入るとオマーン帝国アラビア語: ???????????? ????????‎)のサイイド・サイード王が在地のマズルイ家から島嶼部と沿岸地方を自らの勢力圏に置き、1830年代にザンジバルに王宮ストーンタウンを建設し、帝国の本拠地を移した。1856年にサイイド・サイード王が死亡したあと、本国のオマーン・スルタン国とは別にサイイド・マージドがザンジバルのスルターンに即位するとザンジバル・スルタン国(Sultanate of Zanzibar、1856年 - 1964年)が成立し、引き続きクローヴなどの香辛料の交易や奴隷貿易で栄え、この時代にザンジバルは東アフリカ最大の奴隷市場となった。19世紀後半には、ザンジバル出身のスワヒリ商人ティップー・ティプが現在のコンゴ民主共和国東部に相当するタンガニーカ湖にまで勢力を伸ばし、内陸地域のスワヒリ語の普及の一因となった。彼はデイヴィッド・リヴィングストンヘンリー・モートン・スタンリーの探険も助けた。
イギリス・ドイツ植民地時代「ドイツ領東アフリカ」も参照ドイツ領東アフリカ

1880年代アフリカ分割が始まると、カール・ペータースの活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ)。19世紀後半からインド洋に進出していたイギリスは、1890年7月1日にドイツとヘルゴランド=ザンジバル条約を締結し、ザンジバル領のうち、沿岸地方はドイツが獲得し、島嶼部のザンジバルをイギリスの保護国とした。1890年に保護国となったザンジバル・スルタン国は、政変にともなう1896年イギリスとの戦争でイギリスに一方的に敗北し、保護国化当初のザンジバルへの内政不干渉の原則は反故にされ、以後ザンジバルではイギリスによる行政が進んだ。

一方、大陸部のタンガニーカでは、ペータースの植民地会社は沿岸地方で発生したアブシリの反乱の鎮圧に手こずり、会社による統治は不可能と判断され、本国ドイツから総督の派遣を受ける統治形態へと変わった。19世紀末、領域内部には部族国家が複数存在しており、中でもルヴマ州ソンゲア・ルワフ・ムバノ率いるンゴニ族イリンガ州ムクワワ率いるヘヘ族(英語版)が二大勢力であったが、相争っていたため、数年がかりで各個制圧されていった。しかしながら、指導者ムクワワが率いるヘヘ族(英語版)とのゲリラ戦(1891年 - 1898年)は長期化した。1905年の霊媒師キンジキティレ・ングワレ(英語版)(Kinjikitile Ngwale)が主導するマジ・マジ反乱ンゴニ族も呼応して最大の反乱となったが、ヘヘ族がドイツ側について部族の垣根を越えることはできず、徹底的に鎮圧された。この反乱を受けて、ドイツは統治政策の見直しを行うこととなった。沿岸部からタンガニーカ湖までを結ぶ鉄道(ドイツ語: Tanganjikabahn、現在のタンザニア中央鉄道(英語版))は、1905年にダルエスサラームを起点に着工し、1914年には終点キゴマに到達して完成した。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人兵士(アスカリ)を中心としたゲリラ部隊がイギリス軍などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。
イギリス・ベルギー植民地時代

第一次世界大戦がドイツの敗北で終結したことによりドイツ領東アフリカは解体され、大半はイギリス委任統治タンガニーカ準州となり、東北部のルアンダ=ウルンディベルギーの委任統治領となった。イギリスは東アフリカで4地域(ウガンダケニアタンガニーカザンジバル)を支配することとなり、これらには関税同盟が敷かれ、ドイツ領東アフリカルピー(英語版)に代えて共通通貨東アフリカ・シリング(英語版)が導入された。中央鉄道には複数の支線が敷設され、そのひとつはヴィクトリア湖ムワンザにまで延長された。

1939年に第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは8万7,000人が出征した[1]。東アフリカ部隊は東アフリカ戦線イタリア軍と、ビルマ戦線日本軍との戦いを繰り広げ、インパール作戦で日本軍が対峙したイギリス軍には多くのアフリカ人のアスカリが存在した。
独立と連合タンザニア連合共和国初代大統領ジュリウス・ニエレレ。「ムワリム」(スワヒリ語で「先生」の意)と呼ばれ、タンザニア人の尊敬を集めている。

第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の潮流の中でタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(英語版)(TANU)が次第に支持を集め、1961年12月9日に大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。1963年にはザンジバル王国も主権を獲得して独立した。しかし、翌1964年1月にザンジバルで革命が勃発すると国王は亡命し、アラブ人排斥の流血の事態の中でザンジバル人民共和国が成立した。その後、ザンジバルでの政変を経て、ニエレレの汎アフリカ主義の精神の下で両国は連合し、1964年4月26日にタンガニーカ・ザンジバル連合共和国が成立した[2]。同年10月29日、この国家連合は両国の名称とかつてこの地域で栄えたアザニア文化(英語版)の名称を複合し、タンザニア連合共和国と改称した。

独立後、連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレは、内政面ではスワヒリ語を国語とし、1967年のアルーシャ宣言(英語版)発令以後は社会主義の建設を目指し、ウジャマー(英語版)と呼ばれるコンセプトに基づいたアフリカ社会主義を採用した(ウジャマー社会主義)。


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