タリバン
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このため2000年12月の安全保障理事会決議1333では、ターリバーン政権にアヘン製造を禁止する要請が出されている[86]

麻薬追放・減産の形を取りながら、生産や輸出そのものの停止には至らず、むしろ麻薬類の国家管理が厳格化されたことを如実に示すこれらの事実により、ターリバーンによる2000年の麻薬禁止令は、実質としては当時供給過剰により下落傾向を見せていたアヘン相場に歯止めを掛けるための一時的な出荷停止措置であったと見られる[158]

この価格統制政策はターリバーン政権が崩壊した事で崩れ、北部同盟の掌握地域では各軍閥が自派の資金源として、または貧農が生活のためにケシ栽培を再開するケースが続出した。この為に生産量は再び激増、国内総生産(GDP)の50%に相当する産業となっている。これは2005年では全世界の87%に当たる生産量である[159][160]

アフガニスタン共和国政府はケシからの転作を進めて、2008年には前年に比べてケシ畑の耕作面積を19%減少させた。しかしアフガニスタンのケシ畑はタリバーンの勢力が強いヘルマンド州に全体の3分の2が集中しており、ターリバーンの資金源となっていると見られている[161]。またアヘン生産者が国内の混乱を継続させるためにタリバーンに献金を行っているという指摘もある[162]

ターリバーン政権の成立後に情報文化大臣になる予定とされるザビフラー・ムジャーヒド報道官は、今後アフガニスタンはいかなる種類の麻薬も作らなくなることを明かし、市民が麻薬に代わる作物を栽培できるようになるためには国際的な支援が必要だと指摘した[163]
対外関係
主権国家
パキスタン

ターリバーンは1996年の政権樹立前からパキスタンから支援を受けており、米軍侵攻後はターリバーン高官が潜伏していたパキスタンで当局に逮捕されるなどの事件はあったものの友好関係にあるとされる。

パキスタン軍にとり、敵対するインドとの対抗上、アフガニスタンに親パキスタン政権を据え、「戦略的な深み」を得ることは死活的な課題であった[75]。そして「親パキスタン政権」とは、民族的にはアフガニスタンとパキスタンにまたがって存在するパシュトゥン人主体の政権であり、かつ、パシュトゥン民族独立運動につながることを阻止する必要から、イスラム主義を信奉する勢力でなければならなかったという[76]。このためそうした要件を満たすターリバーンはパキスタンの全面的な支援を得て支配地域を拡大していった。アフガニスタンにパキスタンの傀儡政権が成立することは、中央アジアにおける貿易やアフガニスタン経由のパイプラインを独占するという思惑、またインドとのカシミール紛争で利用するイスラム過激派をパキスタン国外で匿うという目論みにも好都合であった。特にISI長官を務めたハミード・グル(英語版)と深く関わり、人権問題を理由にアメリカが支援を絶った以後も、ISIから援助を受けていたとされる[164]1997年にターリバーン軍がマザーリシャリーフの攻略に失敗し、その主力を一挙に喪失してからはISIはより直接的な関与を深めた。2000年の第二次タロカン攻略戦ではパキスタン正規軍の少なくとも二個旅団以上及び航空機パイロットがターリバーン軍を偽装して戦闘加入したとされている。このため2000年12月にはコフィー・アナン国連事務総長がパキスタンを非難する事態となった。

米軍侵攻後、ターリバーン指導部の大半はパキスタンに身を隠し、クェッタ・シューラと呼ばる指導部を再編成し国境越しにアフガニスタンでの反撃作戦を指揮していたとされている[165]

デュアランド・ラインと呼ばれるアフガニスタン-パキスタン間の国境は両国の政府の管理が及ばない地域が多く、政府の管理なしに不特定多数の人々が制限を受けることなく国境間を自由に行き来できた。当該国境はターリバーンの主要民族であるパシュトゥーン人(アフガン人)の居住地帯を跨いでいる。デュアランド・ラインを跨いでパキスタン側のパシュトゥーン人居住地域にはトライバルエリアが広がっており、その地に居留するターリバーン司令官らがマドラサを通じてアフガン人のターリバーン戦闘員の採用していた[166]。トライバル・エリアではパキスタンの憲法上の規定から同国の法律は運用されておらず、また、中央・地方政府の実権が及ばない地域が多かった事からパキスタン政府はターリバーン関係者を追跡しきれなかったと言われている。民族分断や歴史問題を孕むデュアランド・ラインを巡ってはアフガニスタンとパキスタンとの間で長年国境紛争になっている。ターリバーン政権の最高指導者オマル師はパキスタンの政治家からデュアランド・ラインを受け入れたか否かを聞かれた際に憤慨したと伝えられている[167]

パキスタンはターリバーン最大の後ろ盾と考えられてきたが、2021年11月現在ターリバーンが樹立した「アフガニスタン・イスラム首長国」を国家として承認していない。
サウジアラビア

1990年代半ばにはサウジアラビアはパキスタンを通じてターリバーンに資金援助を行っており[77]、アフガニスタンの安定化に対するターリバーンへの期待は高かった。アメリカとターリバーン政権の関係が悪化し、アメリカがサウジアラビアに対してアフガニスタンにビンラーディンの引渡しをさせるように求めても、サウジアラビアはターリバーンに圧力をかけるのに消極的であった。しかし、1979年から2001年までサウジアラビア総合情報庁の長官だったトゥルキー・ビン・ファイサル・アール・サウード王子は、ターリバーン政権末期のオマル師との対談で、オマル師から「サウジアラビアはビンラーディンと話し合うべきであり、彼と戦うのではなく帝国主義者と戦うべきだ」と言われた。アメリカとの対決を迫られたファイサル王子はファハド国王アブドゥッラー皇太子にサウジアラビアはターリバーンと断交するべきだと忠告した[168]。ターリバーン政権の崩壊後は、サウジアラビア内からターリバーンに対して多額の寄付を行うイスラム主義者の存在が明らかになっており、国連から制裁を受けているターリバーン構成員の資金洗浄場所となった[169]。サウジアラビアはこれらの対応に消極的だった[170]

宗教面に関する論争については、サウジアラビアのイスラーム法解釈の主流であるハンバル学派に属するワッハーブ派は、ターリバーンのイデオロギーであるハナフィ―学派に属するデーオバンド派サラフィースーフィズムを融合させたものであると批判している[171]


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