パキスタンの軍統合情報局(ISI)と軍部は、ターリバーンの創設時と政権を握っていた時期に支援を行っていたこと、そして反乱期にも支援を続けていたことが一般に推測されているが、パキスタンは2001年のアメリカ同時多発テロ事件後、同グループへの支援を全て取り止めたと主張している[40][41][42][43][44][45]。2001年には、アルカーイダのリーダーであるウサーマ・ビン・ラーディンの指揮下にある2,500人のアラブ人がターリバーンのために戦ったと言われている[46]。
2021年5月に攻勢を開始し、同年8月15日にはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言[47]。ガニー政権側もアブドゥル・サタール・ミルザクワル内務相代行が平和裏に権力の移行を進めると表明した[48]。8月19日にはメディアを通じてアフガニスタン・イスラム首長国の建国を宣言した[49]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
発生と名前の由来
出典検索?: "ターリバーン"
「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(????)のパシュトー語における複数形であり、イスラム教神学校(マドラサ)で神学教育・訓練された学生から構成される。厳密にはイスラム神学、イスラム哲学、イスラム法を扱うイスラム教神学校において、イスラーム過激派(イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)となった学生及びその出身者らによる、ジハードや宗教的な社会の建設を目指す学生運動・政治運動ともいえる。
アフガニスタンではソ連(当時)の侵攻にともない、国内において戦乱が続く状態となり、パキスタンへの難民や多くの孤児が発生した。パキスタンの地域社会においても孤児を受入れる余裕がなく、イスラム教寺院などが引取っていった者も多いという。彼らはイスラム教神学校(マドラサ)で学び、その過程で、いわば自然発生的に、現在のような思想や目標を自ら作り上げていったとされる。
ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」(学生)、二人以上なら複数形の「ターリバーン」(学生たち)が用いられる。 国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち[50]、統治機構のようなものを組織している。基本的にその多くが農村出身者であるため、発想が農村的であり、アフガ二スタンでの反政府闘争時においても、必ずしも都会ではその活動基盤をうまく作り上げることが出来なかったといわれ、政権獲得後の政策においても都市の商工業者と軋轢を来たすことが多いともいわれる。
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