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出典検索?: "ターリバーン"
「ターリバーン」という語はアラビア語で「学生」を意味する「ターリブ」(????)のパシュトー語における複数形であり、イスラム教神学校(マドラサ)で神学教育・訓練された学生から構成される。厳密にはイスラム神学、イスラム哲学、イスラム法を扱うイスラム教神学校において、イスラーム過激派(イスラム法学および法解釈を厳格にするべきとする思想・学派)となった学生及びその出身者らによる、ジハードや宗教的な社会の建設を目指す学生運動・政治運動ともいえる。
アフガニスタンではソ連(当時)の侵攻にともない、国内において戦乱が続く状態となり、パキスタンへの難民や多くの孤児が発生した。パキスタンの地域社会においても孤児を受入れる余裕がなく、イスラム教寺院などが引取っていった者も多いという。彼らはイスラム教神学校(マドラサ)で学び、その過程で、いわば自然発生的に、現在のような思想や目標を自ら作り上げていったとされる。
ターリバーン構成員を数えるとき、一人なら単数形の「ターリブ」(学生)、二人以上なら複数形の「ターリバーン」(学生たち)が用いられる。 国旗や国名(アフガニスタン・イスラム首長国)を持ち[50]、統治機構のようなものを組織している。基本的にその多くが農村出身者であるため、発想が農村的であり、アフガ二スタンでの反政府闘争時においても、必ずしも都会ではその活動基盤をうまく作り上げることが出来なかったといわれ、政権獲得後の政策においても都市の商工業者と軋轢を来たすことが多いともいわれる。 最高指導者の下に指導者評議会[51](ラフバリ・シューラ、通称:クエッタ・シューラ)があり、その下に各委員会が設置されている。 指導者評議会は委員会を取りまとめる各委員長と有力な軍事司令官や著名な宗教学者で構成されていると言われている[52]。日本のマスメディアは指導者評議会の構成人数を26人と報じている[53]。 委員会は政府における省庁のような役割を与えられている。委員会は軍事、政治、経済、メディア・文化、公共事業、諜報等、分野別に分けられ、これらを合わせて17[54]または18[55]存在する。また、委員会はそれぞれアフガニスタン全国の州・郡・市に各委員会の代表者を設置している[56]。軍事、経済、メディア・文化の3つの委員会は、ターリバーン内で初めて設置された委員会だと言われている[57]。 各州に州知事や州軍事司令官やイスラム法廷を置き、各郡にも郡長や郡軍事司令官を置いている[58]。なお、州知事と州軍事司令官は軍事委員会から任命される[59]。 アフガニスタン紛争中の2012年、中東のカタールに対外窓口として機能する「外交交渉のための政治事務所
組織
上記の各機関に属する役人は、それぞれの役割を担う専門職集団から形成するものとされている。専門家集団は、イスラムに対する揺るぎない信仰・清廉・有能を兼ね備えなければならない。信仰心及び清廉さと能力が背反する場合、信仰心と清廉さが優先される。これらは、「篤信を欠く専門職は行政を腐敗させ、能力を欠く敬虔は行政を弱体化させる」「無能ではあるが敬虔なる者は行政の役割を果たせないだけだが、有能な悪人は多大なる害悪をもたらす」といったターリバーンの考えに基づいている[61]。ターリバーンの政治事務所の長だったアブドゥル・ガニ・バラダル[62]
国際連合によるとタリバンの総数は約6万5000人から20万人以上である[58]。2021年の攻勢において傘下の戦闘員は10万人とも報道されている[63]。パシュトゥーン人だけでなくタジク人やウズベク人、トルクメン人なども居り、指導部も多様な人種により構成されている[58]。
派閥としてはアフガニスタン東部のペシャーワル派、北東部のバダフシャーン派、西部のマシュハド派などがある[58]。また最強硬派としてハッカーニ・ネットワーク、反主流派としてアフガニスタン・イスラム首長国高等評議会(HCIEA)などがあると言われている[58]。しかし、ハッカーニ・ネットワークのトップとされてきたシラジュディン・ハッカーニは「イスラムの敵による偽情報戦の一部」と発言し、派閥の存在を否定している[64]。HCIEAはマンスール師の第2代最高指導者への就任に反対し、ターリバーン内で反乱を起こしたグループであるが、実質的な中心人物となったアブドゥル・マナン・ニアジが戦死し、息子のハーリド・ニアジがアクンザダ師に忠誠を誓ったため事実上崩壊している。 代名前在任期間 各省庁の長である大臣(相)は、管轄する省庁の分野に見識のある者ではなく、内戦で立てた武勲や首長であるムハンマド・オマルへの忠誠心の強さに基づき配属されるケースが多かった。 元首 内閣 1996年9月27日発足。2000年3月、8月内閣改造
幹部
歴代の最高指導者
1ムハンマド・オマル1994年 - 2013年4月30日
2アフタル・ムハンマド・マンスール2013年4月30日? - 2016年5月20日? [65]
3ハイバトゥラー・アクンザダ2016年5月25日 - 現職[66]
2001年当時のターリバーン政権の主要幹部
首長 - ムッラー・ムハンマド・オマル(2013年4月に死亡)
統治評議会議長(首相) - ムハンマド・ラッバーニー
統治評議会第一副議長(第一副首相) - ハッサン・アフンド
統治評議会第二副議長(第二副首相) - アブドゥル・カビール(英語版)(議長の死去後、2001年11月の政権崩壊まで議長職を代行)
外相 - アブドゥル=ワキール・アフマド・ムタワッキル
内相 - アブドゥル=ラザン・アフンド
財務相 - アブドゥル=ワサイ・アガジャン・モタセム
教育相 - アミール・ハーン・ムッタキー
国防相 - ムッラー・ハッジ・ウバイドゥッラー・アフンド
勧善懲悪相 - ムハンマド・ワーリ
航空・観光相 - アフタル・ムハンマド・マンスール(2010年にターリバーンのナンバー2に就任、2015年7月に最高指導者に就任。2016年5月死亡)
通信・労働相 - アフマドゥッラー・モティ
情報・文化相 - クトラドゥッラー・ジャマール
保健相 - ムッラー・ムハンマド・アッバース・アフンド
司法相 - ムッラー・ヌールディン・トゥラビ
軽工業相・食糧相 - ハムドラ・ザーヒド