タモリ
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2023年 - 第60回ギャラクシー賞放送批評懇談会60周年紀念賞」[8]

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タモリ(1945年昭和20年)8月22日[1][2][9] - )は、日本お笑いタレント、テレビ司会者、俳優福岡県福岡市南区市崎出身[3]田辺エージェンシー所属[10]ビートたけし明石家さんまと共に、日本の「お笑いBIG3」の一角を担う[11]。本名は森田 一義(もりた かずよし)[1]

1982年から2014年まで『森田一義アワー 笑っていいとも!』で総合司会を務め、「同一司会者により最も多く放送された生バラエティー番組」として、また1987年から現在まで『ミュージックステーション』で総合司会を務めており、「同一司会者による生放送音楽番組の最長放送」としてそれぞれギネス世界記録に認定されている[12]
略歴
生い立ち

太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市に生まれる。本名の「一義」は、祖父が尊敬していたという政治家・田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたものだと言われる[13]

本人曰く、幼少時代より大人びていて、「偽善」という言葉を知っていたと語っている。幼稚園入園時期が迫り、とある園に見学に行った際に「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日葛原しげる作詞室崎琴月作曲)」を両手を回転させてお遊戯している園児らを見て、自分には出来ないと入園を拒否したというエピソードがある[14]

小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていたことから[15]坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立している。
少年時代

小学3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2か月休学して治療したものの、視力は戻らなかった[16][17]

小学5年生の頃、予餞会で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。しかし、後に脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。ラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。

小学生の頃、当時としては珍しい考えの祖母が「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言うときに困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことを「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。そのため、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作る際には、一人で大体の料理を作ったり、出汁の取り方まで全部覚えていたと語っている。

福岡市立高宮中学校時代には、近所にあった平尾バプテスト教会に通ったという。キリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の身振り手振りや喋りが面白いからという理由であり、この経験が後に『笑っていいとも!特大号』で見せる「来日3年目の外国人牧師」等に生かされている。なお、このものまねにはモデルが存在し(当教会の宣教師、R.H.カルペッパー)、当教会関係者から見ても「確かによく似ている」そうである[18][19]

部活動は、主に剣道陸上競技を行っており、陸上部で短距離200mを走っていた。

ちなみに福岡市立高宮中学校は、1958年当時全国で2番目のマンモス校であった。
学生時代

福岡県立筑紫丘高等学校へ入学し、剣道部吹奏楽部を両立してトランペットを担当していた。アマチュア無線クラブにも入ってアマチュア無線技士の資格も取得していて個人の無線局JA6CSHも開局し[20]船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道[注 1]も通い、二段を取得した[21]。ファンであった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。

高校卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入れに篭り、中国韓国からのラジオ放送を長時間聴いていたことが、「4か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んで極度の瞑想に近い経験をしたこともある[22]

無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学[23]

早稲田大学ではモダン・ジャズ研究会に在籍し、高校時代から引き続きトランペットを担当。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。しかし、「マイルス・デイヴィスラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でやめてしまい、代わりにマネージャーと司会を担当することになった[注 2]。この時期に付けられたニックネームが、森田をバンドマン読み[24]とした「タモリ」である。

その後、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、司会の大橋巨泉からその才能を認められている[25]

大学2年次5月の連休に、友人2人と旅行を計画し、学費用の仕送りを旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料の支払いが滞ることとなり、3年次に学費未納のため抹籍処分となった[26][27]
帰郷・山下洋輔との出会い

大学を抹籍処分になった後もモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続行し、バンドの司会などでかなりの収入を得ていた[23]。しかし、間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命に3年近く保険外交員として勤務し、2歳年上の同僚の女性と結婚した。その後旅行会社に転職し、系列の大分県日田市ボウリング場支配人に転属となった[25]

1972年、渡辺貞夫の福岡でのコンサートスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間間近まで飲みながら話し込んでいた。


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