1952年、エジプトではナーセルら自由将校団によって七月革命と呼ばれる軍事クーデターが起こった。これによってファールーク国王が退位し、王制が廃止されて共和制が成立した[21]。革命によって既存のすべての政党が解散され、翼賛的な「解放機構」が設立された[16]。これを記念してイスマーイーリーヤ広場は「解放」を意味するタハリール広場と改名された[15][22][16]。
クーデター後の初代大統領兼首相にはムハンマド・ナギーブが就き、副首相兼内務大臣にはナーセルが就いたが、やがてナーセルが全権を握った[23]。ナーセルはムガンマア(英語版)と呼ばれるソ連風建築の政府庁舎をタハリール広場のそばに建設した[15]。また、広場にはアラブ連盟の本部、ヒルトンホテル、博物館、与党であるアラブ社会主義連合の本部が建設された[4][24][注釈 3]。オーウェン (2011)は、タハリール広場はナーセル政権の野望を具体化する象徴的な場所となったとしている[4]。
タハリール広場への立ち入りは厳しく監視され、騒動が起こる兆候があればすぐに戦車が出動した。ただし、政権を支持する行進は許可され、ワフド党の指導者であったムスタファ・ナッハース(英語版)のような重要人物の葬儀の行進も行われた[4]。 1970年にナーセルは心臓麻痺で死去した[25]。彼の死後、副大統領であったアンワル・アッ=サーダートが大統領を継いだ[26]。1972年、カイロ大学の学生デモ隊がタハリール広場内の小広場を占拠し、イスラエルによるシナイ半島の軍事占領の継続に対するサーダート大統領の対応を非難した。サーダート政権は初めは説得を試みたが、やがて警官隊を動員してこれに参加した多くの学生を逮捕した[27]。 1977年、サーダート政権は門戸開放政策を実施した。国際通貨基金の指導を受けた政権は小麦や米などに対する補助金を削減した。これによってパンの価格が高騰し、「パン暴動」と呼ばれる食料暴動が発生した[27][28][29]。この際もタハリール広場で抗議活動が行われたが、軍の監視下による夜間禁止令によって鎮圧された[27]。 1981年10月6日、サーダートは過激なイスラーム主義者によって暗殺され、副大統領であったホスニー・ムバーラクが大統領に就任した[30]。2003年にイラク戦争が発生すると、ムバーラク政権はアメリカ合衆国を支援した。これに反対する人々が数時間にわたってタハリール広場を占拠した[31]。それ以降も何回か小さな抗議運動がタハリール広場で発生した[31]。2004年アテネオリンピックの終了後には、エジプトで久しぶりの金メダルを獲得したレスリングのカラム・イブラーヒームとムバーラクが並ぶ巨大な広告板がタハリール広場などに掲げられた[32]。 2010年12月17日、チュニジアで露店商を営んでいた26歳の青年であるムハンマド・ブーアズィーズィーが、自らを侮辱した警察に抗議するために焼身自殺を行った。当時のザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー政権において不公平感を抱いていた人々は彼に共感してベン・アリー大統領の辞任運動を始めた。1か月後、ベン・アリーはサウジアラビアに亡命し、政権は崩壊した[33]。 チュニジアでの革命の成功に後押しされ、エジプトにおいても、インターネットで結成された「4月6日運動」「我らは皆ハーリド・サイード」などの民主化運動が2011年1月25日にムバーラクの辞任を求めるデモの実施を決めた[34]。デモはタハリール広場で実施されることが決まった[35]。 1月25日、4月6日運動などによって計画された数千人のデモ隊がカイロやエジプトの各地からタハリール広場を目指して集まった。デモ隊は警察の防衛線を突破して広場を占拠した。一部の参加者は座り込みを始め、夜通し広場からは動かないことを宣言した。警官隊は座り込みを行う参加者を強制的に排除したほか、これ以上参加者が集まらないように広場を封鎖した[36]。 1月28日金曜日、金曜礼拝の後、25日のときよりも多いデモ隊がタハリール広場に押し寄せた[37]。これは「怒りの金曜日」と銘打たれた[35]。デモ隊は警官隊を突破して広場を再び占拠した[36]。夜には警官隊は姿を消し、代わりに広場には軍が派遣された[36][38]。
サーダート政権からムバーラク政権まで
2011年エジプト革命「アラブの春」および「エジプト革命 (2011年)」も参照
タハリール広場における抗議運動のタイムラインタハリール広場(2011年1月25日)