タツノコプロ
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多くのタイトルが読広の電波担当役員の松山貫之によって名付けられ、松山は読広退社後の1995年12月から1996年11月までタツノコプロの会長に迎えられる間柄でもあった[24]
社内体制

タツノコプロには企画から撮影まで社内のみで完結する一貫した制作体制が整っていた[25]。かつては東映動画や虫プロダクション(旧社)も同様の体制を保持していたが[26]、これらが合理化や倒産により外注化を拡大したり消滅したあとも、タツノコプロは長くこの体制を維持した。押井守は演出家の修業の上でそれが役立ったことを語っている[27]

外注プロダクションでは作画のタマ・プロダクションが貢献した[28]。後に韓国ルートを開拓し、子会社のアニメフレンドを設立した[29]

2000年代以降、一時は自社で企画・プロデュースのみを行い、アニメーションの製作そのものはグロス発注をするという制作手法も多かったが、2016年以降、KING OF PRISM by PrettyRhythmなどの元請制作やデジタル班によるCM制作、PV制作に力を入れている。
キャラクター室
吉田竜夫社長が直轄していた独立性の高い部署。天野嘉孝、高田明美、下元明子が在籍。
企画文芸部
日活出身の脚本家、鳥海尽三が虫プロを経て移籍してきたのを契機に設立。鳥海尽三を部長に、小山高男、柳川茂らが所属した。
美術部
中村光毅が部長。美術デザイン、世界設定のみならず、メカニックデザインも行なった。大河原邦男、多田喜久子らが所属。
演出部
部長は笹川ひろし。原征太郎、鳥海永行、布川ゆうじ、押井守、真下耕一、うえだひでひと、西久保利彦らが活躍。タツノコプロでは演出が動画チェックも行なった[30]
出版部・版権部
版権管理の他、タツノコアニメのコミカライズ絵本、版権イラストを担当。天馬正人や内山まもるが在籍。
CM部
コマーシャルやPR映画などを制作。後に葦プロダクションを設立する佐藤俊彦、加藤博らが在籍した。
主な作品
テレビアニメ

太字はTOKYO MX『タツノコタイムズ』(2022年10月3日 - 2023年9月22日)内にて第1話が放送された作品。

開始年放送期間タイトル名義・
制作スタジオ監督アニメーション
プロデューサー備考
1965年5月 - 1966年4月
宇宙エース吉田竜夫
タツノコプロ /
吉田竜夫
竜の子プロダクション /
吉田竜夫
タツノコプロダクション笹川浩吉田健二
1967年4月 - 1968年3月マッハGoGoGo(第1作)笹川ひろし(総)吉田竜夫
10月 - 1968年9月おらぁグズラだど(第1作)
1968年10月 - 1969年3月ドカチン
1969年4月 - 9月紅三四郎九里一平(総)吉田健二
10月 - 1970年9月ハクション大魔王笹川ひろし
1970年4月 - 1971年12月昆虫物語 みなしごハッチ(第1作)九里一平
原征太郎
10月 - 1972年9月いなかっぺ大将笹川ひろし(総)N/A
1971年1月 - 1972年9月カバトット笹川ひろし吉田竜夫
4月 - 9月アニメンタリー 決断九里一平吉田健二第25話まで制作
1972年1月 - 12月樫の木モック九里一平
→原征太郎(総)
10月 - 1974年9月科学忍者隊ガッチャマン鳥海永行九里一平
10月 - 1973年9月かいけつタマゴン笹川ひろし(総)吉田竜夫
1973年1月 - 9月けろっこデメタン吉田健二
九里一平
10月 - 1974年6月新造人間キャシャーン
1974年4月 - 9月昆虫物語 新みなしごハッチタツノコプロ
竜の子プロダクション
タツノコプロダクション原征太郎九里一平
9月 - 1975年3月ウリクペン救助隊笹川ひろし(総)
原征太郎(総)永井昌嗣共同制作:ユニマックス&MK
10月 - 1975年3月破裏拳ポリマー鳥海永行(総)佐藤光雄
10月 - 1976年9月てんとう虫の歌笹川ひろし(総)永井昌嗣
1975年7月 - 12月宇宙の騎士テッカマン笹川ひろし(総)
鳥海永行(総)九里一平
10月 - 1976年12月タイムボカン笹川ひろし(総)柴田勝
永井昌嗣


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