タツノコプロ
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タツノコプロが原作と演出、東映動画が作画以降の作業を分担する計画であった。企画中止の後、東映動画は独自に『宇宙パトロールホッパ』を制作した[3][4]。このとき、タツノコ側からはアシスタントの原征太郎と吉田兄弟の友人の漫画家笹川ひろしが東映動画で3か月のアニメーター養成研修を受けた。

1965年(昭和40年)


5月 - タツノコプロ単独制作により『宇宙エース』がテレビアニメ第1作としてフジテレビ系列で放送開始。モノクロ作品。吉田兄弟、笹川ひろし、原征太郎を中心に新たに奥田誠治、坪田力蔵、西岡たかし、木下敏治、東映動画から美術の中村光毅虫プロダクションから脚本家の鳥海尽三らが加わる。その他、新聞の募集広告で約60名のスタッフが集まる。『宇宙エース』放送以後、1980年中盤までタツノコ制作の多くの作品がフジテレビ系列で放映される。

1966年(昭和41年)


2月 - 鳥海永行が入社、当時は文芸部がなかったため演出部に所属。

1967年(昭和42年)


4月 - カラー作品第1号『マッハGoGoGo』が放送開始。以後、吉田竜夫が原作を務めた作品と『いなかっぺ大将』(川崎のぼる原作)などの他の原作者による作品を並行しながら、アニメ制作を続ける。『ハクション大魔王』などのスラップスティックギャグを多く制作し、その間に『みなしごハッチ』を始めとする家庭向けメルヘン作品などの他ジャンルのアニメも手掛け、1970年代からは『科学忍者隊ガッチャマン』の制作を切っ掛けにしてSFアクションヒーロー物も制作のラインナップに加わる。

1970年代
1973年(昭和48年)


タツノコランドを設立。同社はタツノコプロのキャラクターをプラモデル化、販売は今井科学が行なった。タツノコランドはテレビアニメ『新造人間キャシャーン』『破裏拳ポリマー』のスポンサーにもなった。

1975年(昭和50年)


タイムボカンシリーズ開始。

1977年(昭和52年)


3月7日 - 子会社のアニメフレンドを設立。

9月5日 - 吉田竜夫社長が肝臓がんのため45歳で死去。

吉田竜夫が体調を崩した前後から、タツノコプロ草創期のメンバーを中心に社外への人材流出が起きる[5]


9月21日 - 吉田健二取締役が第2代社長に就任。

1978年(昭和53年)


アニメーター養成機関、タツノコアニメ技術研究所を設立。

1980年代
1983年(昭和58年)


3月 - 『ハクション大魔王』以来続いた日曜夜6時のタツノコプロ制作枠が廃枠となる。

9月 - 『イタダキマン』が打ち切り。タイムボカンシリーズ終了。

1985年(昭和60年)


9月 - 『炎のアルペンローゼ ジュディ&ランディ』(赤石路代原作)を最後に、タツノコプロ制作による新作アニメのフジテレビ系列での放送が長らく途絶える事になる[注 1]

1986年(昭和61年)


ドテラマン』が、1971年(昭和46年)に制作・放送された『アニメンタリー 決断』以来15年ぶりに日本テレビでタツノコプロ制作のアニメが放映された。また、朝日放送でも9年ぶりとなるタツノコプロ作品の『光の伝説』が放送される。その後、タイムボカンシリーズなど多くの旧作がテレビ東京で放送され、タツノコプロの新作は主にテレビ東京で発表されるようになる。

1987年(昭和62年)


吉田健二社長が退任し、タツノコプロを退社。九里一平が第3代社長に就任。健二前社長は退任後、独自のプロダクション「遊エンターテインメント」を設立。同社でテレビアニメ『横山光輝 三国志』の制作に関わる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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