タタール人
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タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) という語は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称である[40]。この語はテュルク語で「他の人々」を意味するとされ[41]、その最古の使用例は突厥文字で記した碑文(突厥碑文)においてであった。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、『新五代史』や『遼史』において「達靼」「達旦」などと表記したが、これは他称ではなく、彼らの自称であるといい[42]、タタルを自称とする部族が形成されていた。

後にタタルと自称する人々はモンゴル部族に従属してモンゴル帝国の一員となり、ヨーロッパ遠征に従軍したため、ヨーロッパの人々にその名を知られた。ヨーロッパではモンゴルの遊牧騎馬民族が「タルタル (Tartar)」と呼ばれるようになり、その土地名も「モンゴリア(モンゴル高原)」という語が定着するまでは「タルタリー」と呼ばれた。中でもロシア語の「タタール(Татар)」はよく知られているが、ロシアはヨーロッパの中で最も長くモンゴル(タタール人)の支配を受けた国であり、ロシア人にとって「タタールのくびき (татарское иго)」という苦い歴史として認識されている。東ヨーロッパではモンゴル帝国の崩壊後にロシアの周縁で継承政権を形成したムスリム(イスラム教徒)の諸集団をタタールと称した。彼らの起源は、モンゴル帝国の地方政権のうちで後のロシア領を支配したジョチ・ウルスにおいてイスラム教を受容しテュルク化したモンゴル人と彼らに同化した土着のテュルク系、フィン・ウゴル系諸民族などで、これが現在のロシア・東ヨーロッパのタタール民族に繋がっている。

一方、東アジアでもモンゴル帝国の崩壊後も「タタル」の語は使われ続け、漢字で「韃靼」と記された[43]。この韃靼はかつての達靼(タタル部)ではなく、モンゴル人全体を指しているため、使い方としてはヨーロッパと類似している。

以上のように、「タタル」という呼び名は突厥碑文の他称に始まり、のちに突厥碑文のタタルから派生したタタル部(達靼)が自称するようになった。同じく突厥碑文のタタルから派生したモンゴルがユーラシア大陸を支配する巨大な帝国に形成すると、タタル部はその一員となるが、この時代にモンゴル帝国の遊牧民全体がヨーロッパ、中国から「タルタル、韃靼」と他称された。今はテュルク系ムスリムのことを指す場合が多い。
現在のタタール

現在では、旧ソビエト連邦を中心にシベリアから東ヨーロッパにかけて居住するテュルク系諸民族がタタール(タタール語: Татарлар, Tatarlar)を自称するが、現在「タタール」と呼ばれる諸民族はロシア連邦内のヴォルガ川中流域(イデル=ウラル地域)に住むヴォルガ・タタール人(カザン・タタール人)、ヴォルガ川下流域に住むアストラハン・タタール人シベリアに住むシベリア・タタール人クリミア半島に住むクリミア・タタール人ベラルーシリトアニアおよびポーランドに住むリプカ・タタール人などに分かれる。

タタール人の人口が多い国はロシアで、統計上の総人口はおよそ550万人とロシア人に次ぐ多数派民族である。このうち数が多いのはヴォルガ・タタール人で、ヴォルガ中流域のタタールスタン共和国に200万人、隣のバシコルトスタン共和国に100万人が居住する。また、中華人民共和国にもロシアから移住したタタール人が少数民族のタタール族(タタール語版、中国語版)とされ、新疆ウイグル自治区に2010年現在で4890人[44]が暮らす[注 1]
語源と表記

タタールの語源は古テュルク語で、「他の人々」を意味した[41] Tatar(タタル)である。

伝統的にはもっぱら、中国語では韃靼(ダーダー、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: dada)、アラビア語では ???(タタル)、ペルシア語では ????? (タータール)、ロシア語では Татар(タタール)、西ヨーロッパの諸言語では Tartar(タルタル)と表記される[45]

韃靼の口語形として韃子があるが、モンゴルを侮辱する言葉であり、陝西省山西省漢人たちは現在でもときどき口にする言葉である[46]

宮脇淳子は韃靼という語について、「中国王朝のは、モンゴル高原で遊牧生活を送っている人びとが、元朝と深い関係にあるモンゴル帝国の後裔であることを知りながら、かれらをモンゴル(蒙古)と呼ばずに、わざとタタル(韃靼)とよんだ。それは、中華思想の立場では、正統はただひとつしかなく、明朝だけがモンゴル帝国の宗主国元朝の継承者でなければならなかったからである」と分析している[46]
アジア史のタタール
三十姓タタルと九姓タタル

突厥碑文には、「三十姓タタル(オトゥズ・タタル、Otuz Tatar)」や、「九姓タタル(トクズ・タタル、Toquz Tatar)」という複数の部族(姓)からなる集団が登場する。このうちの三十姓タタルは中国史書に記されている室韋(しつい)に比定されている。

8世紀の『ホショ・ツァイダム碑文(キョル・テギン碑文)』に、「バイカル湖の東岸方面のクリカン(骨利干)とシラムレン川のキタン(契丹)の間に、オトゥズ・タタル(三十姓タタル)がいた」と刻まれたように[47]突厥の時代から室韋は三十姓タタルと呼ばれていたのであるが、一方で『シネ・ウス碑文』などに「トクズ・タタル(九姓タタル)」という集団がセレンゲ川下流近くに居住していたことも記されている。九姓タタルと三十姓タタルとの関係はわかっていないが、九姓タタルが三十姓タタルと同じ起源であるとすれば、これも室韋から分かれた集団であると推測できる。しかし、『新五代史』に記されている「達靼(たつたん、タタル)」は「靺鞨の遺種」と記されており、室韋の後身とは記されていない。

860年代に九姓タタルは回鶻(ウイグル)を滅ぼした黠戛斯(キルギス)を撃退し、オルホン川流域に割拠した。13世紀にモンゴルが強大になるまでモンゴル高原の支配部族であったケレイト王家はおそらく九姓タタルの後身である可能性が高い[48]

一方で、室韋の旧地に残っていた三十姓タタルは、かつて九姓タタルが住んでいたセレンゲ川上流域や、ケルレン川上流にまで住地を広げ、11世紀から13世紀にかけて活躍するモンゴルやタタルといった部族の起源となる。
タタル部詳細は「タタル部」を参照13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。

モンゴル高原中央部で黠戛斯(キルギス)の遊牧国家が倒れると、タタル諸部族は南下を開始し、モンゴル高原の中部から東部に広く分布するようになった。高原の東南に遊牧していたキタイ(契丹)がを建国すると、これらの遊牧諸部族は遼の支配を受け、ときに遼に反抗しながら部族の興亡を続ける。この時期に台頭したのが、ケレイト部、ジャライル部、メルキト部、モンゴル部、バルグト部といった諸部族であり、これらと並んで有力部族となったのがタタル部である。すなわち、この時代のタタル部とはかつて突厥が三十姓タタルと他称した室韋の後裔の一部であり、タタルを自称の部族名とした集団であった。『元朝秘史』によると、タタル部族にはアルチ、チャガン、ドタウト、アルクイの4氏族があるという。一方、『集史』ではトトクリウトを筆頭に、同じくアルチ、チャガンの他にクイン,テレイト,バルクイの計6氏族が数えられている。

12世紀南宋代の中国ではモンゴル高原東部・北東部に居住するタタル部など諸部族を「黒韃靼」、モンゴル高原南部(内蒙古)に居住するオングトなど諸部族を「白韃靼」と呼んでいた[40][43][49]


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