タジキスタン
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総計(2022年9,119,347[3]人(97位
人口密度63.7人/km2

GDP(自国通貨表示)
合計(2019年)773億5500万[4]ソモニ

GDP(MER
合計(2019年)81億1700万[4]ドル(144位
1人あたり873.499(推計)[4]ドル

GDP(PPP
合計(2019年)329億2600万[4]ドル(134位
1人あたり3,543.461(推計)[4]ドル

独立
 - 日付ソビエト連邦より
1991年9月9日
通貨ソモニTJS
時間帯UTC(+5) (DST:なし)
ISO 3166-1TJ / TJK
ccTLD.tj
国際電話番号992
^ タジキスタン共和国憲法(タジク語版、英語版), November 6, 1994, Article 2.

タジキスタン共和国(タジキスタンきょうわこく、タジク語: ?ум?урии То?икистон)、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベである。内陸国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。

ソビエト連邦の崩壊に伴い独立し、ロシア連邦など旧ソ連諸国による独立国家共同体(CIS)などに参加している。
国名

正式国名は、?ум?урии То?икистон(読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーン、あるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン)。通称は、То?икистон。

公式の英語表記はRepublic of Tajikistanで、通称Tajikistan。タジキスタン国民や「タジキスタンの」を意味する形容詞は Tajikistaniである。

日本語の表記はタジキスタン共和国で、通称タジキスタン。

タジク人たちは遊牧をしていたアーリア系スキタイ遊牧民である。タジク人たちはテュルク人たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。国名はタジク人の自称民族名 То?ик(タージーク、トージーク)と、タジク語で「?の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(ペルシア語ではタージーク、t?j?k)の語源は明らかではないが、中国唐朝イスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったと言われる[5]。アラビア語、タジク語、ペルシア語、ダリー語で "??? Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となる。現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。
歴史タジキスタンの衛星写真詳細は「タジキスタンの歴史(英語版)」を参照
紀元前から近世

紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族がユーラシア・ステップ草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を作り上げていた。

現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃。パミール高原を境とする中国インドアフガニスタンイラン中東の結節点としての「文明の十字路」たる地位を確立してきた。反撃の過程ではスピタメネス(タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語シュグニー語、ルシャン語(英語版)、ワヒ語などのパミール諸語を話す民族を今日まで存続させてきた。サーマーン朝イスマーイール・サーマーニー廟

7世紀イスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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