タジキスタン
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^ タジキスタン共和国憲法(タジク語版、英語版), November 6, 1994, Article 2.

タジキスタン共和国(タジキスタンきょうわこく、タジク語: ?ум?урии То?икистон)、通称タジキスタンは、中央アジアに位置する共和制国家。首都はドゥシャンベである。内陸国で、南にアフガニスタン、東に中華人民共和国、北にキルギス、西にウズベキスタンと国境を接する。

ソビエト連邦の崩壊に伴い独立し、ロシア連邦など旧ソ連諸国による独立国家共同体(CIS)などに参加している。
国名

正式国名は、?ум?урии То?икистон(読みは、ジュムフーリーイ・トージーキストーン、あるいはジュムフーリーイ・タージーキスターン)。通称は、То?икистон。

公式の英語表記はRepublic of Tajikistanで、通称Tajikistan。タジキスタン国民や「タジキスタンの」を意味する形容詞は Tajikistaniである。

日本語の表記はタジキスタン共和国で、通称タジキスタン。

タジク人たちは遊牧をしていたアーリア系スキタイ遊牧民である。タジク人たちはテュルク人たちと住み、多くの遊牧民に遊牧の文化を伝えた。国名はタジク人の自称民族名 То?ик(タージーク、トージーク)と、タジク語で「?の国」を意味する -истон の合成語である。タジク(ペルシア語ではタージーク、t?j?k)の語源は明らかではないが、中国唐朝イスラム帝国を指した「大食」(タージー)と同じで、元はペルシア語で「アラブ人」を意味した語であると言われ、のちにアラブ人からイスラム教を受け入れたペルシア・イラン系の人々のことを指すようになったと言われる[5]。アラビア語、タジク語、ペルシア語、ダリー語で "??? Tāj" は「王冠」を意味し、単純には「冠の人たちの国」となる。現在でもタジキスタン国内で国名の由来を説明するときに用いられる通説である。
歴史タジキスタンの衛星写真詳細は「タジキスタンの歴史(英語版)」を参照
紀元前から近世

紀元前2000年から紀元前1000年にかけて、アーリア系のスキタイという遊牧民部族がユーラシア・ステップ草原から中央アジアに移住し、オアシス地方で独自の文化を作り上げていた。

現在のタジキスタンの領土に相当する地域は、古代より最盛期のアケメネス朝ペルシア帝国の東部辺境としてギリシア世界に知られ、様々な民族の往来・侵入・支配を受けつつも果敢に反撃。パミール高原を境とする中国インドアフガニスタンイラン中東の結節点としての「文明の十字路」たる地位を確立してきた。反撃の過程ではスピタメネス(タジク語では「スピタメン」)を輩出した。同時に山岳地域は被征服民族の「落武者の隠れ里」として、各地のタジク語諸方言だけでなく、ヤグノビ語シュグニー語、ルシャン語(英語版)、ワヒ語などのパミール諸語を話す民族を今日まで存続させてきた。サーマーン朝イスマーイール・サーマーニー廟

7世紀イスラーム教徒のペルシア征服の後、8世紀に西方からアラブ人が到来し、イラン系の言語を話していたこの地域の住民たちの多くはイスラム教を信奉するようになり、9世紀には現在のタジキスタンからウズベキスタンにかけての地域で、土着のイラン系領主がブハラを首都にサーマーン王朝を立てた。しかし、サーマーン朝は同地域でのタジク系最後の独立王朝となる。やがてテュルク民族が到来すると、タジキスタンとウズベキスタン、アフガニスタン、イランなどにかけて広く居住するイラン系の言語を話すムスリム(イスラム教徒)定住民たちは都市部においては侵入してきたテュルク語系諸民族と混住し、テュルク系言語とイラン系言語のバイリンガルが一般的となった。双方の民族とも民族としてのアイデンティティは低く、たとえば「タジク」という呼称よりも、出身地により自らを「サマルカンド人」や「ブハラ人」などと呼ぶなど、出身都市や集落に自己のアイデンティティを求めることが多かったようである。

16世紀にはタジクたちの中心地域であるマー・ワラー・アンナフル(ウズベキスタン中央部からタジキスタン北西部)に、ヴォルガ川流域で強大になったウズベク人(シャイバニ・ウズベク族)が侵入し、ウズベク族の建てたブハラ・ハン国の支配下に入る。

アングロ・ペルシア戦争(英語版)(1856年 - 1857年)後にパリ条約が締結されると、ガージャール朝ヘラートから手を引いた。19世紀ロシア帝国では軽工業を基幹とする産業革命が進行していたが、1860年代前半にアメリカ合衆国で勃発した南北戦争の影響から、それまでアメリカ合衆国南部奴隷制プランテーション農業によって生産されていた綿花の値段が上昇したため綿花原料の確保が困難となり、ロシア帝国では「安い綿原料の確保」ばかりでなく、「大英帝国による中央アジアの植民地化阻止」および「平原を国境とすることの危険性」といった観点から、中央アジアへの南進および領土編入・保護国化が進められ(グレート・ゲーム)、1868年にブハラ・ハン国はロシアの保護国となった。
20世紀以降ブハラ人民ソビエト共和国の国旗

20世紀初頭のオスマン帝国1904年から1905年にかけての日露戦争での日本の活躍をほとんど注目しておらず、むしろロシアと敵対関係にあったブハラ・ハン国の政府に支援されたブハラからの留学生が留学先のドイツ帝国の首都ベルリンでロシアが日本に敗れたことを知り、ブハラ・ハン国とその同盟国たるオスマン帝国に知らせている[要出典]。その留学生らは、日本の近代化の原動力を明治維新だと知ると、同じような自由主義革命の気運がガージャール朝ペルシア1906年から始まったイラン立憲革命)やオスマン帝国(1908年から始まった青年トルコ人革命)に拡大した。しかし、ロシアの力があまりに強大だったウラル山脈地域や中央アジアでは、社会主義革命民族自決のための希望を見出した。

ロシア革命の影響を受けたブハラ青年らは保守的なブハラ・ハン国を倒壊し、1920年ブハラ人民ソビエト共和国を打ち立てた。しかし、1924年ソビエト政府は中央アジアの各自治共和国を民族別の共和国に分割統治再編する「民族境界区分」の画定に踏み切り、それまでテュルクの定住民とまとめて「サルト」と呼ばれてきたイラン系のタジクたちが、タジク民族として公認されるとともに、ブハラの東部とトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の南部が切り分けられて現在のタジキスタンの領域にタジク自治ソビエト社会主義共和国が設置された。


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