現在のタシュケントの民族構成はウズベク人が多数を占め、2013年の調査では65.0%となっている。一方、ロシア人は1970年当時は40.8%を占めていたが2013年には18.0%まで急減している。これは、ウズベク人の流入や高出生率による人口増加と独立以降のロシア系住民の流出や低出生率によるものである。
また、民族調査ではウズベク人としてカウントされているタジク人も相当数いると見込まれる他、ウクライナ人、タタール人、クリミア・タタール人やウイグル人、アルメニア人、高麗人、カザフ人などで構成される多民族都市となっている。タシュケントではウズベク語を理解しない人も少なくなく、ウズベキスタンでは独立時にロシア語は公用語から排除され、ウズベク語への一本化が図られたもの、ロシア系住民の多いタシュケントではロシア語は広く共通語として用いられている。タシュケントのロシア人人口は最盛期には70万人に達していたが、2013年には42万人に減少した。それでもロシア、ウクライナ国外の都市の中で、カザフスタンのアルマトイに次ぐ人口規模となっている。
民族1970年(人)(%)1989年(人)[6](%)2008年(人)(%)[7]2013年(人)(%) タシュケントはソグド語での古名をチャーチュ (c'c : ???)、またはチャーチュカンドともいい、ペルシア語でもチャーチュ( ??? Ch?ch)と称し、アラビア語ではシャーシュ( ??? Sh?sh)と呼ばれた。『シャー・ナーメ』でもそのように記されている。チルチク川の形作るタシュケント・オアシスの主邑として、またカザフ草原・天山山脈北麓の遊牧地帯とマー・ワラー・アンナフルのオアシス定住農耕地帯を中継する商業都市として古代から繁栄した。康居の中心地であったと推定される。 国際交易では中国にまで名を知られ、『後漢書』以来石国と呼ばれた。また「チャーチュ」の音写として「者舌」(『魏書』)や隋唐時代の「柘支」、玄奘三蔵の『大唐西域記』では「赭時」と書かれた。ソグド人が中国地域で用いた一字姓では、チャーチュ出身者は「石」姓を名乗った。750年には唐の将軍高仙芝が石国に侵攻したためにシャーシュ(チャーチュ)はイスラムのアッバース朝に支援を求め、タラス河畔の戦いのきっかけをつくった。その後、さまざまなイスラム王朝と北方の遊牧民の支配を経て次第に都市住民のイスラム化・テュルク化が進展した。サーマーン朝時代にはBinkathとも呼ばれた。 カラハン朝の10世紀末頃から「タシュケント」の名も現れる。1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・カンに、それぞれ破壊される。しかし、ティムール朝そしてシャイバーニー朝によって町は再建される。『西域番国志』によると、15世紀初頭、明の永楽帝の命を受けた陳誠が、陸路でこの地(「達失干」と記録されている)を訪れている。 モンゴル帝国時代にはペルシア語の「チャーチュ」やアラビア語の「シャーシュ」で呼ばれるのが一般的であったようだが、ムガル朝の始祖バーブルは自伝である『バーブル・ナーマ』において「タシュケンドは書物には“シャーシュ”または“チャーチュ”と書かれて」いると述べており、彼が中央アジアで活躍した16世紀頃には既に「タシュケント」の方がティムール朝の王族たちなどではより一般化していたらしいことが窺える。
ウズベク人--907,84244.2%-63.0 %1,528,00065.0%
ロシア人564,88040.8%[6]699,26234.0%-20.0 %423 00018.0%
タタール人--128,7906.8%-4.5 %105,0004.5%
その他---15.0%-12.5-12.5%
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