タケミナカタ
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長野県内各地にはタケミナカタの逃亡・諏訪入りにまつわる伝承のある場所がいくつか存在する[17]下伊那郡豊丘村に伝わる伝承によれば、タケミカヅチがようやくタケミナカタに追いついたところ、タケミナカタが降参し、タケミカヅチと和睦を結んだ。同村にある御手形神社には、終戦の印として両者の手形を彫り残したといわれる石がある。その後、タケミナカタが豊丘村から隣の大鹿村に移って、しばらくそこに滞在したという[18][19]。このことから、大鹿村鹿塩梨原にある葦原神社はかつて「本(もと)諏訪社」と呼ばれていた。また、塩尻市小野神社[20][21]上田市生島足島神社[22]にもタケミナカタが諏訪に入る前に一時滞留したという伝承が語られている。北安曇郡小谷村にある大宮諏訪神社も、タケミナカタの信濃入りの際の神跡と伝えられる[23]

徳島県名西郡石井町にある多祁御奈刀弥神社にも「元諏訪」伝承がある。社伝によると、『古事記』に書かれている「州羽」は当社の事を指し、長野県にある諏訪大社はこの神社から宝亀10年(779年)に移遷されたものであるという。
明神入諏守屋山

『古事記』と『旧事本紀』では征服される神として描かれるタケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では現地の神々を征服する神として登場する。

いわゆる明神入諏神話を記録した現存する最古の文献は、宝治3年(1249年)に上社大祝(おおほうり)の諏訪信重から鎌倉幕府に提出されたといわれている『諏訪信重解状』(『大祝信重解状』、『大祝信重申状』とも)である[24][25]。これによると、神宝(鏡・鈴・唐鞍)を持参して守屋山に天降った諏訪明神は、もともと諏訪にいた「守屋大臣」(守矢氏の遠祖とされる洩矢神、ミジャグジと同一視される)と争論・合戦・力競べをして、その領地を手に入れた[25][26][27]。一 守屋山麓御垂迹の事

右、謹んで旧貫を検ずるに、当砌(みぎり)は守屋大臣(もりやだいじん)の所領なり。大神天降り御(たま)ふの刻、大臣は明神の居住を禦(ふせ)ぎ奉り、制止の方法を励ます。明神は御敷地と為すべきの秘計を廻らし、或は諍論を致し、或は合戦に及ぶの処、両者雌雄を決し難し。
爰(ここ)に明神は藤鎰(ふぢかぎ)を持ち、大臣は鉄鎰を以て、此の処に懸けて之(これ)を引く。明神即ち藤鎰を以て、軍陣の諍論に勝得せしめ給ふ。而(しか)る間、守屋大臣を追罰せしめ、居所を当社に卜して以来、遙かに数百歳の星霜を送り、久しく我が神の称誉を天下に施し給ふ。応跡の方々是(これ)新なり。
明神、彼(か)の藤鎰を以て当社の前に植ゑしめ給ふ。藤は枝葉を栄え「藤諏訪の森」と号す。毎年二ヶ度の御神事之を勤む。爾(それ)より以来、当郡を以て「諏方」と名づく。(中略)

一 御神宝物の事
右、大明神天降り給ふの刻、御随身せしむる所の真澄鏡八栄鈴、並に唐鞍等之在り、御鏡は数百年の間陰曇り無く、鈴は其の音替るなし。毎年二ヶ度、大祝彼の鏡に向かひ、件の鈴を振り、天下泰平の祈請を致す。鞍轡等は其の色損せず。(原漢文)[26][28]藤島社(諏訪市)

この話は『諏方大明神画詞』「祭 第三夏 下」のうち、6月晦日に摂社藤島社諏訪市中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者が手にしていた「藤鎰」と「鉄鎰」が「藤の枝」と「鉄輪」に変わっており、『信重解状』にとって肝心の守屋山への降臨が語られない[29]。抑(そもそも)この藤島の明神と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。ついに邪輪を降ろして正法を興す。明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、即ち根をさして枝葉をさかへ、花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す。藤島の明神と号するこのゆえなり。[10][30]

『画詞』の作者は、『旧事本紀』に出てくるタケミナカタを巻頭に出し、地元伝承を藤島社の由来にかけて述べている。諏訪明神と洩矢神の抗争の伝承を巻頭に出さず、小さく扱ったものとみられる[31]

『解状』や『画詞』のほかには、『神氏系図(前田氏本)』[32]『神家系図(千野家本)』[33]などにも、諏訪明神と初代大祝が「守屋」を追い落とし守屋山麓に社壇を構えたという同系統の伝承が語られている[34]。信州諏方郡に神幸するは、人皇卅二代用明天皇の御宇なり。時に八歳の童子あり。(後有員と字す)明神に随遂せしむ。守屋大神と諍ひ奉りて、守屋山に至りて御合戦あり。童子神兵を率ゐて守屋を追落す。則ち彼の山麓に社壇を構へて、(中略)[35]

また、江戸時代に書かれた伝承記録には、守屋大明神(洩矢神)と藤島大明神(諏訪明神)が相争った際に天竜川の両側に立つ藤の木を絡ませたという異伝も見られる[27]。天龍川を覆ひし藤の木の事
橋原村に鎮座する守屋大明神と川向うなる何某の神、中あしく〔仲悪しく〕おはせし。こなたの藤の木、むかひの藤の木とからみしさま、両神の争ひ給ひしやうに覚ふべし、と古老のいふとなん。此の守屋の神、はじめは大明神を拒み給ひて、後に服従し給ひし神也。此の藤まとひて川を覆ひし間、四・五も川の水を見る事なかりしといふ。元和以来、侯命ありて伐らせ給ひしといふ。(『洲羽事跡考』)

『旧事本紀』の国譲り神話を諏訪上社の縁起として採用した『画詞』は、諏訪でも神官家で広く読まれ、結果的にそれにおけるタケミナカタの説話が通説となり、古来から地元に伝わる入諏神話は影が薄くなったと見られる[36]

明治初期に書かれた守矢氏の家系図『神長守矢氏系譜』[37][38]では、タケミナカタが記紀神話どおりに出雲から逃亡した神という風に描かれている。藤島神社・諏訪明神入諏伝説の地(岡谷市)御名方刀美命(みなかたとみのみこと)、出雲を逃がれ出で州羽の海に到るの時、洩矢神有り、海畔に居して(橋原村に社有り)之を拒(ふせ)ぐ。藤鑰と鉄鑰とを以て互ひに相争ふ事有りと雖も、遂に御名方富命の御稜威(みいづ)に服す。誓ひて曰く、「地を奉りて永く命の祭政を主(つかさど)らん」と。御名方刀美命、歌ひて曰く、
鹿児弓(かごゆみ)乃(の) 真弓(まゆみ)乎(を)持弖(もちて) 宮(みや)満茂里(まもり) 矢竹心(やたけごころ)爾(に) 仕布(つかふ)麻都連(まつれ)与(よ)と。彼の藤を挿し、後に繁茂して「藤洲羽森」と曰ふ。(原漢文)[37][39]

洩矢神以外に、タケミナカタと対抗した矢塚男命[40][41][42][43][44]武居大友主神(諏訪下社の武居祝の祖)の伝承も存在する[45][42][44][46][47]
明神と大祝諏訪大明神
(『仏像図彙』より)

諏訪上社の祭神であるタケミナカタは神氏(じんし・みわし)の祖神とされ、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏保科氏など諏訪神党の氏神としても信仰された。

明治の初め頃まで、諏訪上社には大祝(おおほうり)という職位があり、これをつとめる諏訪氏氏身の者(主に童男)は諏訪明神(タケミナカタ)の身代わり、すなわち神体ないし生き神として信仰の対象であった。


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