タイ王国
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ラーマ4世はマラリアで急死し、チュラーロンコーン王子が即位した[31][32]ラーマ5世)。1897年、ロシア皇帝ニコライ2世ラーマ5世ら(1897年、アレクサンドロフスキー宮殿1855年から1916年までの「白象の旗」タイの国旗。

ラーマ5世あるいはチュラーロンコーン大王(在位1868-1910年)は即位するとすぐに欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。当時、ビルマとマレーシアはイギリスに、ベトナムはフランスに、それぞれ占領されていた。シャムも狙われていたが、ラーマ5世はイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事で、独立を保った。この背景には、ラーマ5世によってある程度近代化されていたシャムをあからさまに占領するのは問題があったことや、シャムを緩衝地帯として独立させておくことが望ましいと考えた英仏両国の事情などがあった[33]

19世紀の終わりに、シャムの王は、シャムにとって危険であったフランスとの紛争を解決し、ロシア帝国との外交関係を確立してロシアの支援を得ることを目指した[34]
立憲君主制移行

ラーマ6世(ワチラーウット、1910年即位?1925年11月没)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じ始めた。新王の個人的資質に関する王族や官僚からの批判、王権を制限する憲法が存在しないという政治体制への批判までを含んでいた[35]、1912年3月初め、立憲制共和制を望むタイ王国陸軍青年将校らによるクーデター計画が発覚し、100名以上が逮捕された。青年将校らは、国の資源が国王の私的享楽に浪費されるために国家建設が遅々として進まず、諸外国(英仏)に侵略されていくと憂いた。この時期に第一次世界大戦が発生しており、イギリスや日本、フランスやアメリカとともに連合国として参戦している。

最初の立憲革命計画で、1932年の人民党による立憲革命の成功へとつながった[35]。すなわちラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)即位後の1932年、プリーディー・パノムヨンプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行したのである(民主革命、立憲革命と呼ばれる)[36]
第二次世界大戦

第二次世界大戦ではフランスがドイツに降伏した後の1940年11月23日、タイは南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こした。1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約を、フランスのヴィシー政権と締結して事実上の勝利となり領土を拡大した。

太平洋戦争が勃発すると両国の同意のもと日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った[37]。タイは東南アジア戦線(マレー作戦ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。

一方で駐米大使セーニー・プラーモート摂政プリーディー・パノムヨンらの「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた[38]。こうした二重外交により、タイは1945年、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することができ、降伏や占領を免れた[39]。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に国王ラーマ8世は王宮内で遺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。
経済成長

第二次世界大戦後のアジアでは、社会主義国家ベトナム民主共和国(1945年?1976年、後のベトナム社会主義共和国)、中華人民共和国(1949年?)が相次ぎ成立。インドシナ半島では東西の冷戦にとどまらず、第一次インドシナ戦争ベトナム戦争とそれに連動するラオス内戦カンボジア内戦と戦乱が続き、タイも共産主義化に脅かされた[40]

特に、ラオス内戦では1970年から軍事介入を開始。北ベトナム軍との激しい交戦により死者を出しつつも、タイ国内への影響を最小限に抑え込んだ[41]。また、「共産主義の防波堤」としてアメリカ軍の基地を置くなどの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた[42]。一方でカンボジアとの国境は絶えず不安定であり、1977年には国境警備兵がカンボジア軍から銃撃を受けて負傷するなど[43] 1990年代にクメール・ルージュが消滅するまで小競り合いは長く続いた。タイ国際航空エアバスA310(1992年)

また、国民の高い教育水準や立憲君主制を基にした比較的安定した国政、そして豊かな国土を背景に、1960年代以降徐々に工業国への道を模索し、日本や欧米各国の資本の誘致に成功しつつ、地元資本の振興にも成功し、1967年には東南アジア諸国連合(ASEAN)に結成時から加盟。1989年にアジア太平洋経済協力(APEC)に結成時から参加した。また、豊富な観光資源と国際的な交通の要所という地の利を背景に、日本やヨーロッパオーストラリアなどからの人気観光地としての座を獲得した。

さらに、1970年代より日本や欧米諸国の大企業の進出を背景にした本格的な工業化、特に機械や造船など重工業化へのシフトを進めるとともに、それらを背景にした高度経済成長が始まり、バンコクやチェンマイなどの大都市を中心にインフラストラクチャーの整備も急速に進むこととなる。1992年には5月流血革命(?????????)が発生したものの、ラーマ9世(プミポン国王)の仲裁により収まった[44]
現在タクシンシナワットウラジーミル・プーチン、APEC 2003

1997年に始まったアジア通貨危機により、タイ経済は一時的に停滞したものの、その後は急激な回復を見せ、日本企業や中国企業の進出も増えた。現在では再び高い経済成長率を維持しており[45]、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けている[46]。しかし、2006年頃からタクシン・チナワット派と反タクシン派との政治的対立が激化するようになり、クーデターが発生するなど政情不安が続いている。

2006年に軍事クーデターが発生し、1997年タイ王国憲法による民政が停止され、タクシン政権が崩壊した。


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