タイ王国
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王国は、ナーラーイの治世中(1656?1688年)、中国やインドと並んでアユタヤがアジアの大国と見なされたときに繁栄した[25][26]。しかし、彼の統治の後半にフランスの影響力が高まったことは、民族主義者の反発を招き、最終的に1688年のシャム革命につながった[27]

血統の激しい闘争の後、アユタヤは、黄金時代と呼ばれる時代に入った。芸術、文学、学習が栄えた18世紀の第2四半期は、比較的平和だった。1715年頃からカンボジアを統治するためのグエン領主との紛争は別として、対外戦争はめったになかった。王国は最後の50年間、血統の危機に直面した。1765年、ビルマ軍の合計4万人の強力な部隊が北部と西部から侵攻した[28]。ビルマは新しいアラウンパヤー王朝の下にあり、1759年までに新しい地域大国になった。14か月の包囲の後、首都の壁が破られ、1767年4月に都市は焼失した。
ラタナコーシン王国ワット・シーラッタナーサーサダーラーム(ラタナコーシン時代の建築)

ラッタナコーシン時代は、バンコクに首都を設けたチャクリー王朝ラーマ1世の治世中に1782年に始まる。ラーマ1世は、前任者のタークシンによって設立されたトンブリーの首都(トンブリー王朝)を移転し、新しい首都バンコクを建設した。首都建設前の最初の数年間、彼は宮殿と王室礼拝堂の建設を監督した。エメラルドが奉献されたロイヤルチャペルまたはワットプラケオは、彼の王宮の敷地内にある。新しい首都の完成に伴い、ラーマ1世は新しい首都を命名する式典を開催した[29][30]1864年にフォンテーヌブローの宮殿でシャム大使の訪問を受けるナポレオン3世

19世紀後半、東南アジアは西洋諸国による植民地化時代を迎えた。西洋の脅威を認めたラーマ4世(1851-1868年)の宮廷はイギリス政府と連絡を取り、緊張緩和を図った。香港総督ジョン・ボウリングが率いるイギリス使節団と、西洋諸国との多くの不平等条約の最初であるボウリング条約を結んだ。これは不平等条約ではあったが、バンコクに商業的および経済的発展をもたらした。ラーマ4世はマラリアで急死し、チュラーロンコーン王子が即位した[31][32]ラーマ5世)。1897年、ロシア皇帝ニコライ2世ラーマ5世ら(1897年、アレクサンドロフスキー宮殿1855年から1916年までの「白象の旗」タイの国旗。

ラーマ5世あるいはチュラーロンコーン大王(在位1868-1910年)は即位するとすぐに欧米を視察してタイの立ち後れを実感し、チャクリー改革と呼ばれる数々の改革を行った。当時、ビルマとマレーシアはイギリスに、ベトナムはフランスに、それぞれ占領されていた。シャムも狙われていたが、ラーマ5世はイギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランスにはラオスとカンボジアを割譲する事で、独立を保った。この背景には、ラーマ5世によってある程度近代化されていたシャムをあからさまに占領するのは問題があったことや、シャムを緩衝地帯として独立させておくことが望ましいと考えた英仏両国の事情などがあった[33]

19世紀の終わりに、シャムの王は、シャムにとって危険であったフランスとの紛争を解決し、ロシア帝国との外交関係を確立してロシアの支援を得ることを目指した[34]
立憲君主制移行

ラーマ6世(ワチラーウット、1910年即位?1925年11月没)が王位を継承すると絶対王制への批判が生じ始めた。新王の個人的資質に関する王族や官僚からの批判、王権を制限する憲法が存在しないという政治体制への批判までを含んでいた[35]、1912年3月初め、立憲制共和制を望むタイ王国陸軍青年将校らによるクーデター計画が発覚し、100名以上が逮捕された。青年将校らは、国の資源が国王の私的享楽に浪費されるために国家建設が遅々として進まず、諸外国(英仏)に侵略されていくと憂いた。この時期に第一次世界大戦が発生しており、イギリスや日本、フランスやアメリカとともに連合国として参戦している。

最初の立憲革命計画で、1932年の人民党による立憲革命の成功へとつながった[35]。すなわちラーマ7世(弟のプラーチャーティポック)即位後の1932年、プリーディー・パノムヨンプレーク・ピブーンソンクラームら官吏によって結成された人民党によるクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行したのである(民主革命、立憲革命と呼ばれる)[36]
第二次世界大戦

第二次世界大戦ではフランスがドイツに降伏した後の1940年11月23日、タイは南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こした。1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約を、フランスのヴィシー政権と締結して事実上の勝利となり領土を拡大した。

太平洋戦争が勃発すると両国の同意のもと日本軍はタイへ進駐し(タイ王国進駐)、タイは表面上日本と日泰攻守同盟を結び枢軸国として戦った[37]。タイは東南アジア戦線(マレー作戦ビルマの戦い)では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。そのため戦争末期には連合国軍の空襲にもあっている。

一方で駐米大使セーニー・プラーモート摂政プリーディー・パノムヨンらの「自由タイ運動」などの連合国と協力する勢力も存在し、連合国と連絡を取っていた[38]。こうした二重外交により、タイは1945年、1940年以降に獲得した領地を返還することでイギリスとアメリカとの間で講和することができ、降伏や占領を免れた[39]。こうした経緯もあって国際連合にも1946年12月16日という早い段階で加盟しており、いわゆる敵国条項の対象ともされていない。大戦終結後、1946年6月9日に国王ラーマ8世は王宮内で遺体となって発見されたが、真相は究明されず、弟のラーマ9世が即位した。
経済成長

第二次世界大戦後のアジアでは、社会主義国家ベトナム民主共和国(1945年?1976年、後のベトナム社会主義共和国)、中華人民共和国(1949年?)が相次ぎ成立。インドシナ半島では東西の冷戦にとどまらず、第一次インドシナ戦争ベトナム戦争とそれに連動するラオス内戦カンボジア内戦と戦乱が続き、タイも共産主義化に脅かされた[40]

特に、ラオス内戦では1970年から軍事介入を開始。北ベトナム軍との激しい交戦により死者を出しつつも、タイ国内への影響を最小限に抑え込んだ[41]。また、「共産主義の防波堤」としてアメリカ軍の基地を置くなどの大々的な支援を受けたことも影響し、共産主義化は免れた[42]


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