タイ王国
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公式の英語表記は、The Kingdom of Thailand、略して Thailand(英語発音: [?ta?l?nd] タイランド)。国民、形容詞とも Thai。日本語表記は、タイ王国、通称はタイ。タイランドと称されることも多い。漢字で泰(タイ)と表記されることもある。

1939年までの正式国名は Siam([sa?j??m] サヤーム、英語発音: [sai?am] サイアム)。この Siam という語は古くポーナガルのチャム語碑文(1050年)、バガンビルマ語碑文(1120年)、アンコール・ワットの刻文(12世紀頃)などに見える Sy?m という語に原型を見ることができる。歴史学者・言語学者のチット・プーミサックはその著書『タイ族の歴史』[5]で、この語がビルマのシャン族のシャン、インドのアッサムアーホーム族のアーホームの語源になったとしている。西洋においては Siam とはポルトガル語の Siao, Syao からきた語とされる[6]。また、1592年、ジェームス・ランカスターが最初に Siam という語を用いたとされる[7]

この Siam が正式な国号となるのは1855年英タイ間でボウリング条約が締結されたときであった[7]

日本においては、かつて暹羅と記した。

明史』巻三百二十四に見える、暹(せん)という国と羅斛(らこく)という国が合併したからとされる。なお、暹という国はスコータイ、羅斛はラウォー(ロッブリー)とするのがポール・ペリオによる研究以来からの定説であったが[8]、『大徳南海誌』の「諸蕃国」に見える一文「暹国管上水速孤底」という記述があることを理由に山本達郎は暹とはアユタヤではないかとする見解を発表し[9]、これが2002年に石井米雄によりタイの学会に紹介され新たな定説となった[10]。なお「暹羅」の読みについて、1712年刊行の『和漢三才図会』ではこの語にしゃむろ、シンロウという読みを与えている。しかし、明治期以降シャムの読みが定着した[6]。また、同時代の外交においては暹羅国と表記された。

このほか、タイを示す「シャム」「暹羅」以外の系統の語として、ビルマ語のヨウダヤー (????????)があげられる。この語はもともと、シャムを語源とするタイ北方のタイ族を呼ぶ言葉「シャン」とは別に、チャオプラヤー川流域のタイ族、およびタイ南部のタイ族を指し示す言葉で、語源はタイに過去に存在した王朝の名前アヨータヤー(アユッタヤー)であると考えられている[11]。ただし、この言葉はタイに対する蔑称とされる[12]

一方、20世紀前半までにシャム/ Siam が国名として定着したが、1939年6月24日、時の首相ピブーンは国名をタイに変更した[13]。これはシャムがチャオプラヤー川流域のタイ族を指す外国からの言葉であり、タイ族の自称である「タイ」に変更するのが適切であったと説明されるが、一方でチャオプラヤー川流域以外のタイ族をも取り込もうとしたピブーンの意図も読み取れる[14]。その後、セーニー内閣時の1945年9月17日にいったん国名はシャムに戻されたが、返り咲いたピブーンにより1949年5月11日、国名がタイに戻された[15]。時は下ってサリット政権時代に、議会で国名にタイがふさわしいかどうか議論がなされたが、結局は国名を維持することになった[6]。しかし現在でも、タイという名前に反対する知識人が見られる[16]
歴史詳細は「タイの歴史」を参照
国家成立

タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった[14]。当時、タイには、モン族クメール人等が先住していた[14]
スコータイ王朝

13世紀初頭にクメール帝国と異教の王国が衰退した後、様々な州がその場所で繁栄した。タイ人の領域は、現在のインドの北東部から現在のラオスの北部およびマレー半島に存在していた。13世紀の間、タイ人の人々は既に中核となる土地に定住していた。

1240年頃、地元のタイの統治者であるフォークンバンクランハオは、クメールに抗議するために人々を結集した。その後、1238年にスコータイ王国の最初の王となった[17]。タイの主流歴史家は、スコータイをタイの最初の王国と見なしている。スコータイはラームカムヘーンの治世中(1279年頃-1299年頃)、さらに拡大した。しかし、それは主にスコータイへの忠誠を誓った地元の領主のネットワークであり、スコータイに直接支配されていなかった。スコータイはマハタマラチャ1世(1347?1368年)の統治下で上座部仏教を採用した[18]
アユタヤ王国・シャム国(暹羅国)アユタヤのワットチャイワッタナーラーム寺院の遺跡。17世紀に建てられ、1767年にビルマ軍によって焼失し、略奪された。.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}アユタヤ王国ナレースワン大王とミンギ・スワ。泰緬戦争(1584-1593年)における象の戦いナーラーイアユタヤ(サイアム)の地図、1686年

アユタヤ王朝の起源は、最も広く受け入れられている説によると、最初の王としてウトン(ラーマーティボーディー1世)を持ち、以前の近くのラヴォ王国スワンナプームから勃興した。アユタヤは、マンダラ体制下のアユタヤ王への忠誠による自治公国と支流州のパッチワークであった[19]。最初の領土拡大は征服と政略結婚によるものであった。15世紀の終わりまでにアユタヤはクメール王朝を3回侵略し、首都アンコールを襲撃した[20]。その後、アユタヤはクメールの代わりに地域の大国となった。スコータイ王朝は、絶え間ない干渉により事実上アユタヤの属国となり、ついに王国に組み込まれた。ボーロマトライローカナートは、20世紀まで続いた官僚制改革をもたらし、サクディナーと呼ばれる社会階層のシステムを構築した[21]。アユタヤはマレー半島に興味を持っていたが、中国の王朝によって支持されたマラッカ王国スルタンを征服することに失敗した[22]

ヨーロッパの接触と貿易は16世紀初頭に始まり、1511年にポルトガル公爵であるアフォンソ・デ・アルブケルケの特使が来訪して同盟国となり、一部の兵士をラーマーティボーディー2世王に譲渡した[23]


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