さつきは甲状腺の免疫機能に関する研究者で、以前10年近くデトロイトの大学病院に所属していた。アメリカ人の夫がいたが、3年前にやっと離婚の調停が成立した。今は日本に戻っている。
ガイド兼運転手の名はニミットといった。やせたタイ人の男だった。さつきは友人のジョン・ラパポートのアレンジで、これから一週間山の中のリゾート・ホテルに滞在することになっている。ニミットを推薦してくれたのもラパポートだった。
さつきの出身が京都だと聞いたニミットは尋ねた。「先月の神戸の大地震ではたくさんの人が亡くなりました。ドクターのお知り合いには、神戸に住んでおられる方はいらっしゃいませんでしたか?」
さつきは神戸には一人も知り合いはいないと思うと答えた。でもそれは真実ではなかった。神戸にはあの男が住んでいる。さつきはシートの背中にもたれて、目を閉じた。あの男が重くて固い何かの下敷きになって、ぺしゃんこにつぶれていればいいのにと思った。あるいはどろどろに液状化した大地の中に飲み込まれていいのにと思った。
明日には帰国するという最後の日、プールの帰りにニミットはさつきを近隣の村に連れていった。
脚注^ 『村上春樹全作品 1990?2000』第3巻の解題で村上はこう述べている。「甲状腺の専門医を主人公にしたのは、たまたま甲状腺の専門医と知り合い、話をする機会があったからだ。『世界甲状腺会議』なんてものが本当にあるのかと疑う方がおられるかもしれないが、これは実在する。」
表
話
編
歴
村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』
UFOが釧路に降りる - アイロンのある風景 - 神の子どもたちはみな踊る - タイランド - かえるくん、東京を救う - 蜂蜜パイ