矛盾が生じない場合でも、過去の改変が未来に与える影響を扱った作品も多い。これには些細な過去の改変がバタフライ効果のように連鎖しながら拡大波及し、未来の方向性を大きく変更してしまうとする立場と、些細な改変は一時的なゆらぎに過ぎず、その後は収束し未来の方向性に大きな影響を与えないとする立場がある。SF作家のポール・アンダースンは、歴史に大きく関わる人物の暗殺や史実の妨害など、未来社会に重大な影響を与える歴史の改変を防ぐための組織のアイデアを、オムニバス長編『タイムパトロール』(Gurdians of Time、1960年)で発表した。またこの小説では「歴史が改変可能であるならば、何をもって正しい歴史とするか」という疑問も提示されている。この疑問はあくまでフィクション作品上で発生するものであり、過去へのタイムトラベルがありえない現実の歴史では存在し得ない。 タイムパラドックスの矛盾を説明するため、タイムトラベル者による歴史の改変で時間軸が分岐し元の世界と並行した別の世界が生まれるとするパラレルワールドの概念がある。この概念を発展させ、タイムトラベル者の介在がなくとも歴史上の重要なポイントで世界が枝分かれしていると解釈する立場もある。この概念を大幅に作品に取り入れた最初期の小説に、可能性として存在する二つの歴史「ジョンバール」と「ギロンチ」の抗争を描いた、ジャック・ウィリアムスンの『航時軍団』(The Legion of Time、1938年)がある。 このパラレルワールドの発想に類似したものに、量子力学の多世界解釈がある。これは@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}物理的な相互作用が時間上にも及ぶ[要出典]とするもので、この理論に基づくと、過去の改変が行われても素粒子レベルで世界の再構成が行なわれるため、結果としてタイムパラドックスは生じない。ただし、二つの別々の世界でのタイムトラベルの瞬間前後で物体や情報量が生成・消滅するため、エネルギー保存の法則・エントロピー増大の法則・相対性理論等、古典力学の法則は破綻する。また、多世界解釈もタイムトラベルの瞬間前後で相関のない情報量が割り込むため破綻してしまうという問題が解決される訳ではない。 一方で、こうしたタイムパラドックスを全く否定する立場のフィクション作家もいる。例えば、「もし時間を逆行できるタイムマシンが存在するならば、あってはならない矛盾が想定される。したがってタイムマシンは存在しない」との背理法に基づき、時間は一方通行で流れ逆行できないとする考え方がある。また、タイムトラベル者が歴史の改変を試みようとする行為自体が現代の歴史に含まれるという考え方もある。意図的にタイムパラドックスを起こそうと努力しても、その行動は必ず妨害されタイムパラドックスの成立が阻止されるとした作品もある。この理論は現在から過去への改変だけではなく、現在から未来へ対する改変も含まれることになる。 親殺しのパラドックスを例に取ると、過去に遡り親の殺害を試みようとするが、絶対に成功しないことが歴史として組み込まれているか、そもそも過去に移動できないとしている。ロバート・A・ハインラインの短編『時の門』(By His Bootstraps、1941年)など、タイム・パラドックスの論理性を追求した一群の作品の中では、「タイムトラベル者による歴史の改変自体が歴史に含まれており、タイムパラドックスは起こり得ない」との解釈がなされている(ただし、この結論は「主人公に活躍の余地がなく、努力も報われず、カタルシスとエンターティメント性を欠く」ため、理論的には成り立つかもしれないが、文学的にはあまり一般的には受け入れられない)。 またSF作家のラリー・ニーヴンは、『タイム・トラベルの理論と実際』(The Theory and Practice of Time Travel、1971年)と題したエッセイの中で、もし歴史の流れが一本道であり、タイムトラベルによって歴史が改変可能であるならば、幾度ものタイムトラベル者による歴史の改変を経た末に、最終的に人類の歴史は、「タイムマシンが存在せず、タイムトラベル者が決して現れない歴史」として安定するのではないか、と述べている。 これらのような架空の理論や仮説に基づく過去や未来との因果関係の矛盾に着目したものとは別に、論理パズル的なタイムパラドックスもいくつか考案されている。これらは論理的には矛盾はないのに、あり得ないようなことが起こる事象を題材としたもので、その多くは現実の物理学や量子力学上の考察を要求する要素を含んでいる。 現代で買った新品のライターを持つ男がタイムトラベルし、過去へそのライターを忘れてくる。実はそのライターは第三者により時を経て現代に存在する忘れてきたライターとすり替えられており、新品で買ったライターはタイムトラベルをせず現代に存在する。タイムトラベルをするライターは現代と過去を無限ループとして往来する存在であるが、現代に新品がある限りそのライターはどこで買ったものでもない。 このパラドックスではなぜこのようなライターが存在するか、またこのような存在となった時点でライターの分だけ宇宙の質量が増えたのではないのか、そして時を経ても永久に古くならず傷すらつかないのではないか、との問題が提起されている。1960年代に書かれたこの小説のパラドックスは小説『存在の環』(P・スカイラー・ミラー、1944年)で提示されたものの類型であるが、1990年代にスティーブン・ホーキング博士がこれに類似する概念を持つ閉時曲線と量子効果の仮説を示し、過去へのタイムトラベルを否定する論拠としている。小説では言及されていないが、このタイムパラドックスは「すり替えた人間の意志が、特異な物質の存在や状態を創出した」という観測問題的側面も内包している。 タイムトラベルを扱った作品には、タイムパラドックスのような論理性や理詰めにはあまりこだわらず、自由な発想でタイムトラベルやそれに伴う世界観を描いた活劇的内容の作品もある。 シミュレーション的要素を重視し、もし歴史が変わった場合に存在するかも知れない世界を描いた、SFで言うIf世界(仮定世界)を構築した作品として、『モンゴルの残光』(豊田有恒)や『スーパー太平記』(手塚治虫)などがある。 また、過去に飛ばされた現代人、未来から現在に飛ばされてきた未来人が、その高度な知識を援用して救民や社会変革を目指すという類型もあるが、そういった類型でもタイムパラドックスはあまり重視されない。小説『闇よ落ちるなかれ』(L・スプレイグ・ディ・キャンプ)のように、現代の科学知識や技術を用いて過去で主人公が活躍する冒険活劇としてエンターテイメント性を重視したものや、漫画『JIN-仁-』(村上もとか)のように、現代の医療技術で江戸時代の人々を救おうとするヒューマンドラマ仕立てのものなど、多くの事例が挙げられる。タイムトラベルを題材とした映画『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)でプロデューサーを務めた東宝の富山省吾は、映画を観ている間、観客に矛盾を気づかせなければ良いと思うと述べており、同作品監督の大森一樹も映画には科学的リアリズムは不要であり、映画内のストーリーが合理的に進んでいれば良いとしている[11]。
タイムパラドックスと矛盾
タイムトラベル活劇