ゾディアック事件
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

この事件は現在も未解決のままである[45]

6月26日付けの消印の手紙には、フィリップス66が販売しているサンフランシスコ・ベイエリアの道路地図が同封されていた。地図上のディアブロ山(英語版)の絵の上に、ゾディアックは以前の手紙と同様の円と十字を組み合わせた図形を描いていた。十字の端に0、3、6、9という数字が配されており、0が磁石のNを意味しているとも書かれていた[50]。手紙は32の記号で構成される暗号が含まれていた。ゾディアックはその暗号は埋められた爆弾の場所に繋がるものであり、爆弾は秋に起爆すると主張していた。暗号は解読されず、仕掛けたという爆弾も発見されなかった。ゾディアックは手紙に" - 12, SFPD - 0"と記していた。

1970年7月24日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクルに届いた。手紙の内容は、ゾディアックがキャスリーン・ジョーンズを誘拐しようとしたことを認めるというもので、事件から4か月後のことだった[51]。1970年7月26日の手紙の内容は、『ミカド』のある歌をもじったもので、天国で自分の奴隷をいかに拷問するかという内容だった[52]。手紙には円と十字を組み合わせた図形が大きく誇張的に描かれており、" = 13, SFPD = 0と記されていた[53]。手紙の最後の1枚の下部に、ディアブロ山の暗号はラディアンが重要であると書かれていた[54]1981年、このヒントを元にゾディアック研究家のガレス・ペン(英語版)(英: Gareth Penn)が精密な調査を行った結果、ディアブロ山の暗号はゾディアックによる2件の犯行があった場所を指していると判明した[55]

1970年10月7日、サンフランシスコ・クロニクル社に3インチ×5インチの大きさの葉書が届いた。葉書にはという印とともにゾディアックと署名されていた。小さな十字も描かれており、血液で描いたものとされる。葉書のメッセージはサンフランシスコ・クロニクルの新聞から文字を切り抜き、貼り付けることで書かれていた。また、葉書の端に穴が13箇所開けられていた。捜査を担当していたアームストロングとトスキは、この葉書がゾディアックが送ったものである可能性が高いことに合意した[56]
ポール・エイブリーへの手紙1970年10月24日にポール・エイブリーに届けられたハロウィン・カード

1970年10月27日、サンフランシスコ・クロニクルの記者で、ゾディアック事件の報道を担当していたポール・エイブリー(英語版)の元にハロウィン・カード(英語版)が届いた。カードには'Z'の文字と円と十字を組み合わせた図形で署名されていた。カードの内側には手書きでPeek-a-boo, you are doomedと脅迫と解釈できるメッセージが書かれていた。このカードの件は冗談とは見なされず、サンフランシスコ・クロニクルの1面で報道された[57]。このカードを受け取ってからまもなく、エイブリーの元に匿名の手紙が届いた。その手紙は、ゾディアック事件とシェリ・ジョー・ベイツ殺害事件(英語版) (詳細は後述) との間に共通点があることを指摘する内容だった[58]。エイブリーは1970年11月16日のサンフランシスコ・クロニクルの記事で自身の調査結果を報告している。
リバーサイドの殺人

1966年10月30日、リバーサイド市立大学(英語版)に在籍していた18歳の学生シェリ・ジョー・ベイツ(英: Cheri Jo Bates)は、キャンパス内の図書館の別館で夜を過ごし、午後9時に閉館するまでその場所に居た。午後10時30分ごろに近隣住民が悲鳴を聞いたという。翌朝、ベイツの遺体が図書館から少し離れた場所で発見された。発見現場はキャンパスの改築で取り壊しが予定されていた2軒の使われていない建物に挟まれていた場所だった。ベイツのフォルクスワーゲンのディストリビュータのキャップのワイヤーが引き抜かれていた。ベイツは残忍に殴打され、刃物で刺されて死に至った。現場の近くで、男物のタイメックスの腕時計がリストバンドが裂けた状態で発見された[59]。腕時計は12時24分で止まっていた[60]。しかし、警察はそれよりもかなり早い時間で犯行が行われたと考えている[59]

1か月後の11月29日、警察と新聞社のリバーサイド・プレス・エンタープライズ(英語版)社にタイプライターで書かれた手紙が届いた。手紙の内容はほぼ同じで、"The Confession" (日本語: 告白) と題されていた。手紙には、自分がベイツ殺害の犯人であると書かれており、犯行について詳細にわたって記述されていた。一般には公開されていない情報も含まれていた。手紙には、書き手はベイツ殺害だけでなく他にも殺人を犯すつもりでいるとも書かれていた[61]。同年12月、リバーサイド市立大学の図書館にある机の裏側に詩が彫り込んであることが判明した。詩は"Sick of living/unwilling to die"と題されており、詩の言葉遣いや筆跡がゾディアックの手紙のそれと類似していた。詩には"rh"と署名されており、イニシャルと思われた。1970年の捜査の際に、カリフォルニア州の主席筆跡鑑定調査官であるシャーウッド・モリル(英: Sherwood Morrill)は、詩はゾディアックが書いたものだと考えているという見解を示した[62]

ベイツ殺害からちょうど6か月後の1967年4月30日、ベイツの父のジョセフ(英: Joseph)、プレス・エンタープライズ社、リバーサイド警察の元にほぼ同じ内容の手紙が届いた。プレス・エンタープライズ社と警察に届いた手紙には、殴り書きでBates had to die there will be more (直訳すると「ベイツは死ななければならなかったまた起こるだろう」) と書かれていた。手紙の下部には小さなZの文字のようなものが走り書きで書かれていた。ジョセフ・ベイツに届いた手紙には、She had to die there will be more (直訳すると「彼女は死ななければならなかったまた起こるだろう」) と書かれており、このときはZの署名はなかった[63]2021年8月、リバーサイド警察署未解決殺人事件部は、2016年に手紙の送り主が匿名で警察と接触し、2020年にDNA鑑定で身元が判明したと公表した。手紙の送り主は、手紙は不愉快な悪戯だったと認めて謝罪し、10代の少年だったころに注目を集めるために手紙を書いたと説明した。警察は手紙の送り主がゾディアックではないことを確認した[64]

エイブリーがゾディアック事件をベイツ殺害事件と関連付ける記事を書いてから5か月後の1971年3月13日ロサンゼルス・タイムズにゾディアックからの手紙が届いた。手紙の中で、ゾディアックは自分がベイツ殺害の犯人であることに気が付いた警察の働きを評価したが、エイブリーの名はなかった。また、他にも殺人事件を起こしていたことを仄めかした[65]

ベイツ殺害事件がゾディアック事件と関係があるのかは未確定のままである。ポール・エイブリーとリバーサイド警察は、ベイツ殺害はゾディアックによる犯行ではないという意見を変えていない。しかし、ゾディアックを称する人物がベイツ殺害を認めた手紙の一部は、ゾディアック本人がベイツを殺害したと嘘をついて書いた可能性があることは認めた[66]
タホ湖の失踪事件ポール・エイブリーに宛てられた葉書

1971年3月22日、サンフランシスコ・クロニクル社に葉書が届いた。葉書は記者のポール・エイブリー(英: Paul Avery)に宛てられていたが、"Paul Averly"と誤って書いていた。ゾディアック本人が書いたものと見られ、1970年9月6日のドナ・アン・ロス(英: Donna Ann Lass)失踪事件の犯人が自分であると主張していた[67]。葉書の内容は、広告や雑誌のレタリングをコラージュしたもので、フォレスト・パインズのコンドミニアムの広告からの切り抜きに、 Sierra Club、Sought Victim 12[68]、peek through the pines、pass Lake Tahoe areas、 around in the snowといった文字が貼り付けられていた。ゾディアックの十字と円を組み合わせた記号が、通常は返信先を書く場所と、表面の右下の2箇所に書かれていた[69]

当時25歳のラスは「サハラ・タホ」(英: Sahara Tahoe)というホテル兼カジノで看護師として働いていた。1970年9月6日は午前2時ごろまで働き[69]、午前1時40分には最後の患者の治療を行っていた。同日、それよりも後の時間に、ラスの雇い主とラスの借家の大家へ見知らぬ男性から電話がかかった。電話は、ラスが家族の緊急事態を理由に町を出たという内容だったが、実際には虚偽だった[70]。ラスはそれから行方不明になった。カリフォルニア州ノーデン(英語版)のClair Tappaan Lodgeの近くに墓所と思われるものが発見された。その場所はシエラクラブ(英: Sierra Club)の所有地だった[71]。ラスの失踪をゾディアック事件と決定的に結びつける証拠は発見されていない。
サンタバーバラ郡の殺人

1972年11月13日付けのバレーホ・タイムズ・ヘラルド[72]に、サンタバーバラ郡保安官事務所のビル・ベーカー(英: Bill Baker)が1963年にサンタバーバラ郡北部で若いカップルが殺害された事件はゾディアックによる犯行だった可能性があると推測しているという話が掲載された。1963年6月4日、カリフォルニア州ロンポーク(英語版)の近くの砂浜で、18歳の高校3年生ロバート・ジョージ・ドミンゴス(英: Robert George Domingos)と、その婚約者で17歳のリンダ・フェイ・エドワーズ(英: Linda Faye Edwards)が銃殺された。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:150 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef