ゾディアック事件
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その手紙は、ゾディアック事件とシェリ・ジョー・ベイツ殺害事件(英語版) (詳細は後述) との間に共通点があることを指摘する内容だった[58]。エイブリーは1970年11月16日のサンフランシスコ・クロニクルの記事で自身の調査結果を報告している。
リバーサイドの殺人

1966年10月30日、リバーサイド市立大学(英語版)に在籍していた18歳の学生シェリ・ジョー・ベイツ(英: Cheri Jo Bates)は、キャンパス内の図書館の別館で夜を過ごし、午後9時に閉館するまでその場所に居た。午後10時30分ごろに近隣住民が悲鳴を聞いたという。翌朝、ベイツの遺体が図書館から少し離れた場所で発見された。発見現場はキャンパスの改築で取り壊しが予定されていた2軒の使われていない建物に挟まれていた場所だった。ベイツのフォルクスワーゲンのディストリビュータのキャップのワイヤーが引き抜かれていた。ベイツは残忍に殴打され、刃物で刺されて死に至った。現場の近くで、男物のタイメックスの腕時計がリストバンドが裂けた状態で発見された[59]。腕時計は12時24分で止まっていた[60]。しかし、警察はそれよりもかなり早い時間で犯行が行われたと考えている[59]

1か月後の11月29日、警察と新聞社のリバーサイド・プレス・エンタープライズ(英語版)社にタイプライターで書かれた手紙が届いた。手紙の内容はほぼ同じで、"The Confession" (日本語: 告白) と題されていた。手紙には、自分がベイツ殺害の犯人であると書かれており、犯行について詳細にわたって記述されていた。一般には公開されていない情報も含まれていた。手紙には、書き手はベイツ殺害だけでなく他にも殺人を犯すつもりでいるとも書かれていた[61]。同年12月、リバーサイド市立大学の図書館にある机の裏側に詩が彫り込んであることが判明した。詩は"Sick of living/unwilling to die"と題されており、詩の言葉遣いや筆跡がゾディアックの手紙のそれと類似していた。詩には"rh"と署名されており、イニシャルと思われた。1970年の捜査の際に、カリフォルニア州の主席筆跡鑑定調査官であるシャーウッド・モリル(英: Sherwood Morrill)は、詩はゾディアックが書いたものだと考えているという見解を示した[62]

ベイツ殺害からちょうど6か月後の1967年4月30日、ベイツの父のジョセフ(英: Joseph)、プレス・エンタープライズ社、リバーサイド警察の元にほぼ同じ内容の手紙が届いた。プレス・エンタープライズ社と警察に届いた手紙には、殴り書きでBates had to die there will be more (直訳すると「ベイツは死ななければならなかったまた起こるだろう」) と書かれていた。手紙の下部には小さなZの文字のようなものが走り書きで書かれていた。ジョセフ・ベイツに届いた手紙には、She had to die there will be more (直訳すると「彼女は死ななければならなかったまた起こるだろう」) と書かれており、このときはZの署名はなかった[63]2021年8月、リバーサイド警察署未解決殺人事件部は、2016年に手紙の送り主が匿名で警察と接触し、2020年にDNA鑑定で身元が判明したと公表した。手紙の送り主は、手紙は不愉快な悪戯だったと認めて謝罪し、10代の少年だったころに注目を集めるために手紙を書いたと説明した。警察は手紙の送り主がゾディアックではないことを確認した[64]

エイブリーがゾディアック事件をベイツ殺害事件と関連付ける記事を書いてから5か月後の1971年3月13日ロサンゼルス・タイムズにゾディアックからの手紙が届いた。手紙の中で、ゾディアックは自分がベイツ殺害の犯人であることに気が付いた警察の働きを評価したが、エイブリーの名はなかった。また、他にも殺人事件を起こしていたことを仄めかした[65]

ベイツ殺害事件がゾディアック事件と関係があるのかは未確定のままである。ポール・エイブリーとリバーサイド警察は、ベイツ殺害はゾディアックによる犯行ではないという意見を変えていない。しかし、ゾディアックを称する人物がベイツ殺害を認めた手紙の一部は、ゾディアック本人がベイツを殺害したと嘘をついて書いた可能性があることは認めた[66]
タホ湖の失踪事件ポール・エイブリーに宛てられた葉書

1971年3月22日、サンフランシスコ・クロニクル社に葉書が届いた。葉書は記者のポール・エイブリー(英: Paul Avery)に宛てられていたが、"Paul Averly"と誤って書いていた。ゾディアック本人が書いたものと見られ、1970年9月6日のドナ・アン・ロス(英: Donna Ann Lass)失踪事件の犯人が自分であると主張していた[67]。葉書の内容は、広告や雑誌のレタリングをコラージュしたもので、フォレスト・パインズのコンドミニアムの広告からの切り抜きに、 Sierra Club、Sought Victim 12[68]、peek through the pines、pass Lake Tahoe areas、 around in the snowといった文字が貼り付けられていた。ゾディアックの十字と円を組み合わせた記号が、通常は返信先を書く場所と、表面の右下の2箇所に書かれていた[69]

当時25歳のラスは「サハラ・タホ」(英: Sahara Tahoe)というホテル兼カジノで看護師として働いていた。1970年9月6日は午前2時ごろまで働き[69]、午前1時40分には最後の患者の治療を行っていた。同日、それよりも後の時間に、ラスの雇い主とラスの借家の大家へ見知らぬ男性から電話がかかった。電話は、ラスが家族の緊急事態を理由に町を出たという内容だったが、実際には虚偽だった[70]。ラスはそれから行方不明になった。カリフォルニア州ノーデン(英語版)のClair Tappaan Lodgeの近くに墓所と思われるものが発見された。その場所はシエラクラブ(英: Sierra Club)の所有地だった[71]。ラスの失踪をゾディアック事件と決定的に結びつける証拠は発見されていない。
サンタバーバラ郡の殺人

1972年11月13日付けのバレーホ・タイムズ・ヘラルド[72]に、サンタバーバラ郡保安官事務所のビル・ベーカー(英: Bill Baker)が1963年にサンタバーバラ郡北部で若いカップルが殺害された事件はゾディアックによる犯行だった可能性があると推測しているという話が掲載された。1963年6月4日、カリフォルニア州ロンポーク(英語版)の近くの砂浜で、18歳の高校3年生ロバート・ジョージ・ドミンゴス(英: Robert George Domingos)と、その婚約者で17歳のリンダ・フェイ・エドワーズ(英: Linda Faye Edwards)が銃殺された。その日、2人は「シニア・ディッチ・デー(英語版)」(3年生が学校を休める日)で学校を休んでいた。警察は、犯人は2人を拘束しようとしたが逃げられてしまい、背中や胸部を22口径の銃で繰り返し撃ったと考えている。その後、犯人は2人の遺体を小さな掘っ建て小屋に移動させ、それから小屋を全焼させようとしたが失敗している[73]
最後の手紙

タホ湖の葉書の後、ゾディアックは沈黙を続け、3年ほどの時間が流れてようやく新たな手紙が送られてきた。1974年1月29日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクル社に届いた。映画『エクソシスト』が今まで見た中で最高の風刺喜劇だと評価する内容だった。『ミカド』から歌詞が引用されたほか、下部に今までとは異なる図形が書かれていた。この図形について研究者は説明がつかずにいる。手紙はMe = 37, SFPD = 0と新たに得点が書かれて締めくくられていた[74]
疑わしい手紙

その後も、ニュースメディアに怪しい手紙が送られることがあり、一部は以前にゾディアックから送られた手紙と特徴が似ていた。1974年2月14日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクル社に届いた。手紙は編集者宛てで、シンバイオニーズ解放軍(英: Symbionese Liberation Army)の頭文字の"SLA"は古ノルド語で「殺す」という意味であるという内容だった[75]。しかし、その筆跡はゾディアックのものであるとは証明されなかった[76]

1974年5月8日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクル社に届いた。『地獄の逃避行』という映画は殺人を賛美していると批判する内容で、新聞社にその広告を除くように求めていた。A citizen(直訳すると「ある市民」)とだけ署名されており、筆跡や書きぶりが、以前のゾディアックの手紙と似ていた[77]。その後、7月8日付けの消印が押された手紙がサンフランシスコ・クロニクル社に届いた。反フェミニストのコラムニストであるマルコ・スピネリ(英: Marco Spinelli)の著作をサンフランシスコ・クロニクル社が出版したことを批判する内容だった。手紙にはthe Red Phantom (red with rage)(直訳すると「赤い幻影 (怒りで顔が真っ赤)」)と署名されていた。この手紙がゾディアックによるものなのか議論されている[77]

1978年4月24日付けの手紙がゾディアックを称する人物により送られた。当初はゾディアックが書いた本物であるとされていたが、3か月もたたないうちに3名の専門家により偽物であると宣言された。スタイン殺害事件からゾディアック事件を担当していたサンフランシスコ市警察のデーブ・トスキ刑事が、この手紙を送った犯人であると考えられた。著述家のアーミステッド・モーピン(英語版)(英: Armistead Maupin)は、この手紙は、1976年にトスキ刑事の元に届いた、トスキ刑事の捜査における働きを称賛する手紙と同様であると考えている。モーピンの考えでは、どちらの手紙もトスキ刑事が書いたものであるという。トスキ刑事は1976年の手紙は自分が書いたことを認めたが、1978年の手紙を送ったことは否定した。


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