ゾディアック事件
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1969年8月1日、犯人によって書かれた3通の手紙がバレーホ・タイムズ・ヘラルド(英語版)、サンフランシスコ・クロニクルサンフランシスコ・エグザミナーの各社に届けられた。手紙の内容はほとんど同一で、レイク・ハーマン・ロードとブルー・ロック・スプリングスでの殺人の犯人は自分であると書かれていた。それぞれの手紙には、408の記号で書かれた暗号文の3分の1が記載されていた。犯人は暗号文には自身の正体が記されていると主張した。犯人は各新聞社に暗号文を新聞の1面に掲載することを要求し、そうしなければ週末の夜に12人殺すと脅迫した[7]

サンフランシスコ・クロニクルは翌日の新聞の4面に3番目の暗号を掲載した。暗号の隣に掲載された記事では、バレーホ警察署長のジャック・E・スティルツ(英: Jack E. Stiltz)による「我々警察は手紙が犯人によって書かれたものであると確信していない」という発言が引用された。スティルツ署長は、手紙の送り主に自身の正体を示す証拠とともにもう1通手紙を送ることを要求した[8]。犯人が予告した殺人は起こらなかった。暗号文の残りの2部も最終的には掲載された。

1969年8月7日、新たな手紙がサンフランシスコ・エグザミナー社に届いた。その手紙はDear Editor This is the Zodiac speakingという書き出しで始まった。この手紙で犯人は初めて「ゾディアック」という名義を使用した。この手紙はスティルツ署長の要求に応えたもので、手紙の書き手がファラデー、ジェンセン、フェリンを殺害した犯人であることの証明になった。手紙の中で、ゾディアックは殺人事件について一般には非公開の情報まで記載していたのである。暗号を解読すれば自分を捕まえられるという警察に宛てたメッセージも記していた[9]

1969年8月8日サリナスに住むドナルド・ハーデン(: Donald Harden)とベティ・ハーデン(英: Bettye Harden)が暗号文を解読した。『猟奇島』からの引用と思われる文もあったが、綴りに誤りが見られた。死後の奴隷を集めているという記述もあった[注 2]。解読された暗号には犯人の名前は無かった。ゾディアックは自分の正体を明かせば奴隷集めが遅くなるか止めることになるから正体は秘密にすると記していた[6]
ベリエッサ湖の殺人ベリエッサ湖の景色ブライアン・ハートネルの車のドアに記された、ハートネルとセシリア・シェパードを襲った事件に関するゾディアック自身の犯行声明

1969年9月27日、パシフィック・ユニオン・カレッジ(英語版)の学生である20歳のブライアン・カルビン・ハートネル(英: Bryan Calvin Hartnell)と22歳のセシリア・アン・シェパード(英: Cecelia Ann Shepard)はベリエッサ湖(英語版)(英: Lake Berryessa)でピクニックを楽しんでいた。場所はツイン・オーク・リッジと砂嘴で繋がる小さな島である。2人のもとに白人男性が近づいてきた。その男性は身長は約180センチメートル、体重は77キログラムを超える程度で、処刑人のような黒いフードを被り、両目の覗き穴にはクリップ留めのサングラスを掛けていた。胸部には胸当てのようなものがあり、それには7センチメートル四方の円と十字を組み合わせた記号が白色で描かれていた。男性は銃を持っており、ハートネルによれば45口径だったという。フードの男はコロラド州モンタナ州にある2単語で構成される名の刑務所から逃げ出した囚人であると称した (後にある警察官が、その男性が言及していたのはモンタナ州ディアロッジ(英語版)<英: Deer Lodge>にある刑務所のことではないかと推測している)。男性は看守を殺害して車を盗んだと主張した。2人の車と金がメキシコへ向かうのに必要だと説明した[12]

男性は物干し用のプラスチック製の紐を切ったものを渡し、シェパードにハートネルを縛り上げるように命じた。その後、男性はシェパードを縛り上げると、シェパードがハートネルを緩く拘束したことを見抜き、ハートネルを固く拘束し直した。ハートネルは当初、強盗で済むと思っていたが、男性はナイフを引き抜いて2人を繰り返し刺した。ハートネルは6箇所の、シェパードは10箇所の刺傷を負った[13][14]。犯人はノックスビル・ロードを460メートル進み、そこにあったハートネルの車のドアに黒のフェルトペンで円と十字を組み合わせた記号を描き、さらに記号の下に下記の内容を記した[15][16]。Vallejo

12-20-68
7-4-69
Sept 27?69?6:30
by knife[15][16]

(ヴァレーホ 68年12月20日 69年7月4日 69年9月27日6時30分 ナイフで)

午後7時40分、犯人は公衆電話からナパ郡保安官事務所へ自ら通報した。通報者は最初、オペレータに殺人事件を通報したいと説明したが[17]、その後に自分がその犯人であると明かした。通報から数分後、通報に使用された電話が、受話器が外れたままの状態で発見された。電話はナパのメイン・ストリートにあるナパ・カー・ウォッシュ(英: Napa Car Wash)にあり、犯行現場からは43キロメートル、保安官事務所からはほんの数ブロック離れた距離にあった。発見者はKVON(英語版)ラジオのレポーターであるパット・スタンレー(英: Pat Stanley)だった。刑事たちは電話機から乾ききっていない掌紋を採取できたが、掌紋は被疑者のだれとも一致しなかった[18]

近くの入江で釣りをしていた父子が、被害者たちの助けを求める叫び声を聞きつけて2人を発見した。父子はパーク・レンジャーに連絡をとって救援を呼んだ。ナパ郡保安官代理のデーブ・コリンズ(英: Dave Collins)とレイ・ランド(英: Ray Land)は犯行現場に到着した最初の法執行官だった[19]。コリンズが到着したときにはシェパードには意識があり、犯人の外見を詳細に説明した。ハートネルとシェパードは救急車でナパにあるクイーン・オブ・ザ・バレー・メディカルセンター(英語版)に搬送された。シェパードは搬送中に昏睡状態に陥り、意識を取り戻すことはなく、2日後に死亡した。しかし、ハートネルは生き延び、報道機関に犯行について説明した[20][21]。ナパ郡刑事のケン・ナーロー (英: Ken Narlow) は当初からこの事件の捜査に配属されており、1987年に刑事部を退職するまで捜査に取り組んでいた[22]
プレシディオ・ハイツの殺人1966年、プレシディオから見たサンフランシスコ

2週間後の1969年10月11日サンフランシスコにあるメイソン・ストリートとギアリー・ストリートの交差点(ユニオン・スクエア(英語版)から1ブロック西にある)で、白人男性がポール・スタイン(英: Paul Stine)の運転するタクシーを拾った。客はサンフランシスコの近隣地区であるプレシディオ・ハイツ(英: Presidio Heights)にあるワシントン・ストリートとメープル・ストリートの交差点に向かうように求めた。スタインは何らかの理由で、メープル・ストリートからチェリー・ストリートの方向に1ブロック過ぎた箇所で停まった。すると、客は9ミリ口径の拳銃でスタインの頭を1回撃ち、スタインの財布とタクシーの鍵を奪った。さらに、スタインの血に染まったシャツの裾を引き裂いて持ち去った。午後9時55分に、3名の10代の少年たちが通りを挟んだ向かい側から犯人の姿を目撃していた。凶行の最中、3人は警察に通報した。3人は客がタクシーを拭って証拠を抹消し、1ブロック北にあるプレシディオ(英語版)の方へ歩き去っていくのを見た[23]

通報に駆け付けた巡査のドン・ファウク(英: Don Fouke)とエリック・ゼルムス(英: Eric Zelms)が、犯行現場から2ブロック離れたところで、白人男性がジャクソン・ストリートを東に歩道沿いを歩いているのを見かけた。男はジャクソン・ストリートの北側にある家々のうちの1軒の前庭へと通じる階段を上っていき、すぐに姿を消した[24]

ファウクはその角刈りの白人男性の年齢を35歳から45歳、身長を178センチメートル程度と見積もった。殺人犯を目撃した3人の少年たちによれば、犯人はファウクが言う男と似ていたようだが、年齢はわずかに若かったという。3人は、犯人は角刈りで、年齢は25歳から30歳、身長は173センチメートルから175センチメートルほどだったと説明した。しかし、2人の警察官は無線指令係から犯人は黒人であると伝えられていたため、車を停めることなく怪しい白人男性のそばを通り過ぎてしまった。警察官たちや少年たちの説明が食い違っている理由は説明がついていない。その後、捜索が行われたが、被疑者は1人として発見されなかった。この殺人がゾディアックによる犯行であると公式に確認されている最後の事件である。

スタイン殺害は当初、ありきたりな強盗が殺人沙汰に発展したものと考えられていた。しかし、10月13日、サンフランシスコ・クロニクル宛てにゾディアックからの新たな手紙が届けられた。手紙にはスタイン殺害は自身によるものであると記されており、スタインの血染めのシャツの切れ端が証拠として同封されていた[25]。3人の少年たちの証言により、警察の似顔絵捜査官が犯人の似顔絵を作成した。刑事のビル・アームストロング(英: Bill Armstrong)とデイブ・トスキ(英語版)(英: Dave Toschi)がスタイン殺害の捜査を任命された。サンフランシスコ市警察は数年間にわたって推定2,500名の被疑者に対して捜査を展開した[26]。トスキはのちに、一連の事件を基に制作された映画「ダーティーハリー」の主人公ハリー・キャラハンのモデルになる。
1969年の手紙"I hope you are having lots of fan in trying to catch me that wasnt me on the tv show which bringo up a point about me I am not afraid of the gas chamber becaase it will send me to paradlce all the sooher because e now have enough slaves to worv for me where every one else has nothing when they reach paradice so they are afraid of death I am not afraid because i vnow that my new life is life will be an easy one in paradice death"?ゾディアックの340の記号の暗号を解読したもの。


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