ゾクチェン
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ゲルク派ではダライ・ラマ5世13世14世もゾクチェンの師として知られているが、ゲルク派の座主ではないが高位のラマであるダライ・ラマがゾクチェンを取り入れることは、かねてよりゲルク派の保守層の一部で論争の種となっている[15]
ニンマ派

ゾクチェンは、ニンマ派の伝統では歴史上のパドマサンバヴァ(蓮華生[註 6])が伝えた教えの一つに数えられ、ニンマ派の六大寺院に大別される六大流派には、それぞれに異なる流れのゾクチェンが伝わっている。14世紀にゾクチェンの教えをまとめて体系化した学僧ロンチェン・ラプジャムパが明確化した[註 7]ニンマ派の「九乗教判」によると、無上瑜伽タントラの頂点であるアティヨーガ乗に位置づけられ、法身普賢(クントゥ・サンポ)を主尊とする。ニンマ派においては、このアティヨーガ乗の境地がゾクチェンと等しいとされ、ゾクチェンはアティヨーガの異名であり[16]、同時にその教えの法流の名称でもある[17]
仏教教義上の位置づけ

ニンマ派の『大幻化網タントラ』を依経とする密教的境地のゾクチェンと、太古からのスタイルを守るとされるボン教のゾクチェンの同一性に関して、ゾクチェンが純粋な仏教の教えであるとするニンマ派の教学的観点から問題視されることがある。ニンマ派のドゥジョム・リンポチェがチベット亡命政府主催のチベット仏教者会議において、ニンマ派はボン教と異なるインドの仏教であるとしてニンマ派を純粋な仏教として主張したことがある。また、サテル(地下の埋蔵経)の『ドゥジョム・テルサル』によるゾクチェン[註 8]は、『宝性論』等を主とした如来蔵と唯識の説を背景とするインドのヴィクラマシーラ大僧院の僧院長であった密教の大学者ラトナーカラシャーンティ(980-1050)[註 9][18]の説を引用することがある。

ダライ・ラマ14世[註 10]は、ロンチェン・ラプジャムパの『法海の宝蔵』の註釈や、ジグメ・リンパの直弟子の3代目に当たるトゥルクであるドドゥプチェン・ジグメ・テンペ・ニマ (1865-1926) の著述などを基に、主に中観帰謬論証派の見地から、ゾクチェンのいう原初の清浄性は顕教とは空性の意味が異なるが、ある意味で空(くう)であると説いている[19]。ロンチェンパや近世の学僧ミパム・ギャツォ(1846-1912)[註 11]のゾクチェンにおける空性の理解は、中観帰謬論証派の見解とほとんど合致している、もしくは両者の見解が相補的なものであることを主張している[20]。また、ミパムの『宝性論註』等は、ゾクチェンにおいて第二転法輪の『般若経』の空性の教えと第三転法輪の『如来蔵経』の教えを結びつけている。かれらは「他空」(シェントン:gzhan stong)[註 12][21]という言葉を使用しているが、ダライ・ラマ14世によれば、そのほとんどは「基」(gzhi)としての心である「リクパ」(rig pa:純粋意識)のことを指しており、過去のチベットでチョナン派のトゥルプパ・シェーラプ・ギェルツェンが唱え、などの非仏教の教説に通じるものと批判された『他空説』[22]でいうところの他空とは意味が異なるという[23]
ニンマ派のゾクチェン
ゾクチェンの三部

ニンマ派のアティヨーガに属するゾクチェンの教えは、以下のようにセム(心)、ロン(界)、メンガク(秘訣)の三部に分類される[24]。チベット学者のサム・ヴァン・シャイクは、ゾクチェンの三部は、初期のニンティク文献の登場に伴ってそれ以前の古いゾクチェンの形態とを区別するためにできた分類ではないかと考察している[13]
セムデ(心部、心の本性の部)
ここでいう心は菩提心を指している。8世紀後半から9世紀頃に活躍した訳経法師ヴァイローチャナ(パドマサンバヴァの二十五大弟子のひとり)が留学先のインドでシュリーシンハに学び、チベットに請来した教えとされる。『クンチェ・ギェルポ(英語版)』はセムデの18の論書群の根本テキストとされる。その第31章には、ヴァイローチャナが最初に翻訳したゾクチェンのテキストのひとつとされる「リクパィ・クジュク」(知恵のカッコウ)と題された6行の詩が収められている。この「リクパィ・クジュク」の古い写本が敦煌文献から発見されており、敦煌が一時期吐蕃に占領されていたことから、実際にこのテキストが吐蕃王国時代の8?9世紀に遡る古い来歴をもつ可能性は高いとされている[25]
ロンデ(界部、法界の部)
セムデと同じくヴァイローチャナに由来するとされる。根本タントラは『ロンチェン・ラプジャム・ギェルポ』。
メンガクデ(秘訣部または教誡部)
メンガクは秘訣の意で、口訣、口伝とも訳され、サンスクリットではウパデーシャと書かれる。メンガクデは、パドマサンバヴァが説いていた教えに由来するとされる。これらはパドマサンバヴァ自身やイェシェ・ツォギャルらによって一度秘匿され、後世に発掘されたものとされるため、基本的にメンガクデの教えはテルマである。秘匿された理由は、当時のチベットにはまだ受伝するに足る受け手がいなかったため[26]とも、ランダルマの破仏を予見したためとも言われる。メンガクデに分類される教えには次のようなものがある。

「十七タントラ(英語版)」:起源の定かならぬ古タントラ群で、メンガクデの最古層とされる。根本タントラは『ダテルギュル(英語版)』。

「ビマ・ニンティク」:ヴィマラミトラ・ニンティク。ヴィマラミトラに由来するとされる口伝書群。11世紀に再発見されたものとされるが、厳密にテルマとは言えない面がある[27]

「カンド・ニンティク」:パドマサンバヴァがティソンデツェン王の娘ペマサルに伝えた教えが埋蔵され、後にテルマとして発掘されたとされる教え。

「ニンティク・ヤシ」:14世紀にニンマ派の教学を大成したロンチェンパがビマ・ニンティクとカンド・ニンティクを統合した体系。


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