ソ連
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チェス界ではプロとアマの区別がないため、ミハイル・タリミハイル・ボトヴィニクガルリ・カスパロフなど、ソ連出身の選手が世界王者を長期にわたって[注釈 32]独占していた。一時期は国際大会に出られなかったグランドマスター級の国内選手に対し、ソ連のチェス協会が「ソ連邦グランドマスター」という独自のタイトルを創設したこともあったが、次第にトップ選手ならば試合渡航も許可されるようになった。西側の大会で優勝し国威発揚に貢献するだけでなく、大会の賞金、指導対局の謝礼、執筆した棋書の印税など多くはないが貴重な外貨をもたらした。しかし有力選手がこれを利用して亡命することもあった。特にヴィクトール・コルチノイは亡命後「西側の選手」としてアナトリー・カルポフらソ連代表と国際大会で対戦したことがあり、ソ連側から非難を受けることとなった。

ソ連代表と西側の選手がチームで対戦することもあったが、特にボリス・スパスキーとアメリカ人のボビー・フィッシャーが対戦した1972年の世界王者決定戦は試合の進行をめぐり、クレムリンやホワイトハウスが介入するなど、政治的な問題にまで発展することがあった。敗れたスパスキーはその後の待遇悪化などで、1975年にはフランスへ亡命した。

体制崩壊後は西側へ拠点を移す選手もいたが、ウラジーミル・クラムニクなど、ソ連時代のチェス学校で教育を受けた選手が多数活躍している。旧東ドイツや近隣の東欧諸国でもソ連と似た状況にあった。

中華人民共和国ではスポーツの管理に関してソ連を手本としたため、半官半民の組織(中華全国体育総会)による統括やマインドスポーツを国家体育総局が管轄するなど影響が大きい。
サッカー

サッカーはソビエト連邦で最も人気のあるスポーツの1つであった。サッカーソビエト連邦代表は1950年代から1960年代にかけて黄金期を迎えており、ステート・アマを採用したオリンピックでの活躍は目覚ましかった。1956年メルボルンで金メダル、1972年ミュンヘン1976年モントリオール1980年モスクワでは銅メダルを獲得した。1988年ソウルはプロ解禁が行われた後であったが、金メダルを獲得しソ連代表の有終の美を飾った。

FIFAワールドカップでは、オリンピックほどの目立った活躍はないものの、1966 FIFAワールドカップではベスト4に進出するなど、しばしば上位に進出する強豪国として知られていた。またソ連の伝説的な選手であり、史上最高のゴールキーパーとされるレフ・ヤシンは世界年間最優秀ゴールキーパーに与えられる賞であるヤシン・トロフィーにその名を残しており往時の強さを偲ばせている。

UEFA欧州選手権での活躍も目覚ましく、1960年の第1回大会で優勝。その後も1964年、1972年、1988年で準優勝の成績を収めている。1988年の準優勝は同年のオリンピック金メダルと並んで、ソ連代表の有終の美を飾った。

ソビエト社会主義共和国連邦におけるサッカーの結果開催国結果
1958 FIFAワールドカップ スウェーデン王国ベスト8
1960 欧州ネイションズカップ フランス優勝
1962 FIFAワールドカップ チリ共和国ベスト8
1964 欧州ネイションズカップ スペイン準優勝
1966 FIFAワールドカップ イングランド4位
1970 FIFAワールドカップ メキシコ合衆国4位
1974 FIFAワールドカップ ドイツ4位
1978 FIFAワールドカップ アルゼンチン共和国予選敗退
1982 FIFAワールドカップ スペイン王国2次リーグ敗退
1985 FIFA U-16世界選手権 中華人民共和国不参加
1986 FIFAワールドカップ メキシコ合衆国ベスト16
1987 FIFA U-16世界選手権 カナダ優勝
1989 FIFA U-16世界選手権 スコットランド不参加


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