ソ連
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そのためピオネールには品行方正が要求され、「ポケットに手を入れてはならない」や「指を舐めない」、「握手をしてはならない[注釈 29]」など、禁止事項は100にのぼった[122]

スローガンである「備えは常にあり!(Всегда готов!)は、ピオネールによる大号令でもあった。80年代には日ソ交流の一環として、日本の児童がピオネール・キャンプ(多くはナホトカ、ウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク)に参加した。

ソビエト連邦の消滅後には、各地に小規模ながらも酷似した組織が存在し、その中でもベラルーシは30万人が在籍する[123]
保健詳細は「ソビエト連邦の医療(ロシア語版)」を参照

ソビエト連邦の医療制度は、1918年に保健人民委員部(英語版)によって考案された。革命前の1917年時、人々の保健は他の先進国に比べてかなり遅れていたが、革命後に制定された医療制度により、すべての年齢層の平均寿命が延びるなど大幅な改善が見込めた。連邦における医療制度の原案は当時の政治家であり医師でもあったニコライ・セマシコ(ロシア語版)によって打ち立てられたものでもあった。 同連邦の医療は無料で提供され、国の全人口が適切な医療を受けられるように定められていた。

この節の加筆が望まれています。

宗教詳細は「ソビエト連邦における宗教(英語版)」を参照
正教弾圧ロシア・ボリシェヴィキによる教会財産の接収。 Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。ロシア・革命派によって死刑を宣告される聖職者と地主。 Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。ロシア・ボリシェヴィキの命令で強制労働に従事する聖職者。 Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。1931年のモスクワにて、爆破される救世主ハリストス大聖堂

ロシア革命によって世俗主義無神論唯物論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシア帝国の国教であった正教(組織としてはロシア正教会のほか、ウクライナ正教会グルジア正教会などを含む)は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。のちに世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めた大主教アンドロニク・ニコリスキイは生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。モスクワ総主教ティーホンは当初、無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく抑圧された。

1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑された[124]。1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2000人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5000の司祭が銃殺もしくは投獄された[125]。1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された[126]

政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。亡命者たちの中からはセルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフイリア・メリア(メリアはグルジア人)など世界的に著名な神学者が輩出され、20世紀初頭まであまり知られていなかった正教の伝統が海外に知られるきっかけとなった。

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破された。

1940年代に入ると、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていたモスクワ総主教の選出を認めた(1943年)。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物がきわめて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。

ただし1940年代半ばにはソ芬戦争以後、ヴァラーム修道院のある地域がソ連領となったため、ヴァラーム修道院の修道士達はフィンランドに亡命し、この結果フィンランド正教会新ヴァラーム修道院が設立されるなど、ソ連における正教弾圧は亡命者が出ることがないほどにまで緩和されたわけではない。

スターリンの死後、フルシチョフは再度、正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復することはなかった。
イスラム弾圧

広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともに正教など他の宗教とともに弾圧されることとなり、ムスリム宗務局によって国家統制された。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。

信仰されていた地域に偏りはあったものの、全ソビエト連邦領内におけるイスラム教徒の人口は最終的に7000万人前後にも達し、総人口の実に4人に1人がイスラム教徒(もしくはイスラムを文化的背景に持つ人)で占められていた。この数字はイラン、トルコ、エジプトなどの総人口にも匹敵し、ソビエト連邦は総人口においても、国民に占める割合においても、非イスラム教国家としては最大級のムスリム人口を抱える国家となっていた。

イスラムが多数派の地域以外のロシア連邦などの諸州においても、イスラムを背景に持った諸民族、特にタタール人アゼルバイジャン人が全土に居住し、ソビエト連邦内のどの地域においても一定数のイスラム社会が存在していた。この点は同じ非イスラム教国でありながら全土にイスラム社会を内包しているインドや中国とも共通していた。

ただソビエト連邦におけるイスラムは、中国やインドとは異なり、多数派民族と、文化、言語、血統、形質などを共有する集団、具体的に言えば、スラヴ系のロシア人などと文化や言語を共有する集団の間にはあまり広まらなかった。


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