ソ連
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民族共和国の内部に自治共和国や自治州が置かれたのはこのためである[注釈 27]。また、国民の多くは差異あれどロシア語を解し、モスクワやレニングラード、ロシア人が古来より定住する地域を除いてはこのロシア語と現地語の併用[注釈 28]が見られた。

また、国民は帝政期より文化交流を盛んとしており、ロシア人の間でグルジア料理が親しまれたり、ボルシチといったスラヴ料理はソビエト連邦の国民食として世界に紹介される。
家族詳細は「ソビエト連邦下における家族(英語版)」を参照
人口統計詳細は「ソビエト連邦の人口統計(英語版)」を参照
言語詳細は「ソビエト連邦における言語(英語版)」および「コレニザーツィヤ(ロシア語版、英語版)」を参照
公教育詳細は「ソビエト連邦の公教育(ロシア語版)」を参照学校の様子(1930年代)。

ソビエト連邦において公教育は、少年少女に基礎教育を施すだけではなく、青年への分野別の専門教育を保証した。1918年の教会分離布告以降に発展したソ連の公教育は、16歳未満の教育に対する学費を撤廃し、母国語での教育体制の確保し、その発展に大きく寄与した。また同時に公教育は国家方針を浸透させる場所としても機能し、後述するピオネールコムソモールは、共産党直属の組織であった。ピオネール
ピオネール詳細は「ピオネール」を参照

学校で成績な優秀を収める15歳以下の生徒はピオネールに所属した。正式名称はヴェ・イ・レーニン名称全連合ピオネール(Всесоюзная пионерская организация имени В. И. Ленина)、1922年に創設し、主として課外授業を実施する組織であった。赤いネッカチーフを身につけ、ラッパドラムを演奏しながら行進することが多かった。入団は、自由意志の参加に基づくがその門は狭く、児童の二割程に許された所属であったのである。そのためピオネールには品行方正が要求され、「ポケットに手を入れてはならない」や「指を舐めない」、「握手をしてはならない[注釈 29]」など、禁止事項は100にのぼった[122]

スローガンである「備えは常にあり!(Всегда готов!)は、ピオネールによる大号令でもあった。80年代には日ソ交流の一環として、日本の児童がピオネール・キャンプ(多くはナホトカ、ウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク)に参加した。

ソビエト連邦の消滅後には、各地に小規模ながらも酷似した組織が存在し、その中でもベラルーシは30万人が在籍する[123]
保健詳細は「ソビエト連邦の医療(ロシア語版)」を参照

ソビエト連邦の医療制度は、1918年に保健人民委員部(英語版)によって考案された。革命前の1917年時、人々の保健は他の先進国に比べてかなり遅れていたが、革命後に制定された医療制度により、すべての年齢層の平均寿命が延びるなど大幅な改善が見込めた。連邦における医療制度の原案は当時の政治家であり医師でもあったニコライ・セマシコ(ロシア語版)によって打ち立てられたものでもあった。 同連邦の医療は無料で提供され、国の全人口が適切な医療を受けられるように定められていた。

この節の加筆が望まれています。

宗教詳細は「ソビエト連邦における宗教(英語版)」を参照
正教弾圧ロシア・ボリシェヴィキによる教会財産の接収。 Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。ロシア・革命派によって死刑を宣告される聖職者と地主。 Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。ロシア・ボリシェヴィキの命令で強制労働に従事する聖職者。 Ivan Vladimirov(ロシア語版)作。1931年のモスクワにて、爆破される救世主ハリストス大聖堂

ロシア革命によって世俗主義無神論唯物論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシア帝国の国教であった正教(組織としてはロシア正教会のほか、ウクライナ正教会グルジア正教会などを含む)は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。のちに世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。

聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めた大主教アンドロニク・ニコリスキイは生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。モスクワ総主教ティーホンは当初、無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動はなお著しく抑圧された。

1921年から1923年にかけてだけで、主教28人、妻帯司祭2691人、修道士1962人、修道女3447人、その他信徒多数が処刑された[124]。1918年から1930年にかけてみれば、およそ4万2000人の聖職者が殺され、1930年代にも3万から3万5000の司祭が銃殺もしくは投獄された[125]。1937年と1938年には52人の主教のうち40人が銃殺された[126]

政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。亡命者たちの中からはセルゲイ・ブルガーコフウラジーミル・ロースキイパーヴェル・エフドキーモフイリア・メリア(メリアはグルジア人)など世界的に著名な神学者が輩出され、20世紀初頭まであまり知られていなかった正教の伝統が海外に知られるきっかけとなった。

1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破された。


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