ソ連
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

HTOでは資本主義諸国の会計の取り入れも検討された[注釈 26][117]

1980年代後半のペレストロイカから民営化や市場経済化が始まり、西側諸国との合弁企業で市場経済の会計が部分的に導入され、企業の営業秘密が認められた[118]。1991年のソ連の崩壊後は市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された[119]
アメリカ合衆国との比較

1989年時点における米ソの比較
1990年の
ザ・ワールド・ファクトブックに基づくデータ[120]
ソビエト連邦 アメリカ合衆国
GDP(PPP,1989年 ? million $)2兆6,595億ドル5兆2,333億ドル
人口(1990年7月)約2億9,093万人約2億5,041万人
1人あたりのGDP(PPP,$)9,211ドル21,082ドル
労働力(1989年)約1億5,230万人約1億2,555万人

ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、アメリカ以上に巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。アメリカと対等レベルの核兵器を保有しているとみられていたために、直接対決だと共倒れを招くために自国の軍事行動にアメリカを介入させることはできなかった。国内総生産、また1人あたりのGDPもアメリカの2分の1から3分の1ほどであった。

国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら重工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。1970年代以降、コンピュータや半導体といったハイテク部門の重要性が増すと、重工業優先のソ連ではその技術を導入するのが困難となり、技術進歩率は停滞、ついには設備の老朽化と相まって1980年代には技術進歩率はマイナスに陥ってしまった。

ソ連の経済は1950年代から1960年代の初頭まで目覚しいペースでアメリカの国力を追い上げており、「20年以内にアメリカを追い抜く」というフルシチョフの強気の発言も信じられていたが、1960年代に入るとそのペースは一服したものの、1975年にソ連の相対的な国力は対米比45%と頂点に達した。しかしその後は衰退局面に入り、逆にアメリカとの相対的な国力の差は拡大していった。

ソ連崩壊後、ロシアの軍事力と経済力は急激に衰え、アメリカとは1人当たりのGDPと軍事費において大きく差をつけられた。さらに経済混乱の影響で、国民は社会保障を破壊されて苦しんだため、親米的でペレストロイカを行ったゴルバチョフを、「アメリカに魂を売った売国奴」や「国益を損ねた裏切り者」と酷評する者も少なくない[121]
国民年代別の人口(1989年)。ロシア内戦期に誕生した70歳、大祖国戦争中に誕生した45歳の前後では、出生数が大きく減少している。

ソビエト連邦は150もの民族を擁する多民族国家であり、それぞれの地域に基幹民族が存在した。民族共和国の内部に自治共和国や自治州が置かれたのはこのためである[注釈 27]。また、国民の多くは差異あれどロシア語を解し、モスクワやレニングラード、ロシア人が古来より定住する地域を除いてはこのロシア語と現地語の併用[注釈 28]が見られた。

また、国民は帝政期より文化交流を盛んとしており、ロシア人の間でグルジア料理が親しまれたり、ボルシチといったスラヴ料理はソビエト連邦の国民食として世界に紹介される。
家族詳細は「ソビエト連邦下における家族(英語版)」を参照
人口統計詳細は「ソビエト連邦の人口統計(英語版)」を参照
言語詳細は「ソビエト連邦における言語(英語版)」および「コレニザーツィヤ(ロシア語版、英語版)」を参照
公教育詳細は「ソビエト連邦の公教育(ロシア語版)」を参照学校の様子(1930年代)。

ソビエト連邦において公教育は、少年少女に基礎教育を施すだけではなく、青年への分野別の専門教育を保証した。1918年の教会分離布告以降に発展したソ連の公教育は、16歳未満の教育に対する学費を撤廃し、母国語での教育体制の確保し、その発展に大きく寄与した。また同時に公教育は国家方針を浸透させる場所としても機能し、後述するピオネールコムソモールは、共産党直属の組織であった。ピオネール
ピオネール詳細は「ピオネール」を参照

学校で成績な優秀を収める15歳以下の生徒はピオネールに所属した。正式名称はヴェ・イ・レーニン名称全連合ピオネール(Всесоюзная пионерская организация имени В. И. Ленина)、1922年に創設し、主として課外授業を実施する組織であった。赤いネッカチーフを身につけ、ラッパドラムを演奏しながら行進することが多かった。入団は、自由意志の参加に基づくがその門は狭く、児童の二割程に許された所属であったのである。そのためピオネールには品行方正が要求され、「ポケットに手を入れてはならない」や「指を舐めない」、「握手をしてはならない[注釈 29]」など、禁止事項は100にのぼった[122]

スローガンである「備えは常にあり!(Всегда готов!)は、ピオネールによる大号令でもあった。80年代には日ソ交流の一環として、日本の児童がピオネール・キャンプ(多くはナホトカ、ウラジオストク、ハバロフスク、イルクーツク)に参加した。

ソビエト連邦の消滅後には、各地に小規模ながらも酷似した組織が存在し、その中でもベラルーシは30万人が在籍する[123]
保健詳細は「ソビエト連邦の医療(ロシア語版)」を参照

ソビエト連邦の医療制度は、1918年に保健人民委員部(英語版)によって考案された。革命前の1917年時、人々の保健は他の先進国に比べてかなり遅れていたが、革命後に制定された医療制度により、すべての年齢層の平均寿命が延びるなど大幅な改善が見込めた。連邦における医療制度の原案は当時の政治家であり医師でもあったニコライ・セマシコ(ロシア語版)によって打ち立てられたものでもあった。 同連邦の医療は無料で提供され、国の全人口が適切な医療を受けられるように定められていた。

この節の加筆が望まれています。

宗教詳細は「ソビエト連邦における宗教(英語版)」を参照
正教弾圧ロシア・ボリシェヴィキによる教会財産の接収。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:478 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef