閣僚会議[85]閣僚内閣(ロシア語版)
一党独裁制1982年、ソビエト連邦最高会議議事堂の大クレムリン宮殿
ソビエト連邦は複数のソビエト共和国から成立する連邦国家として誕生した国家連邦であったが、実態として中央集権の様相を呈することとなり、一連の改革の終盤の1990年まではソビエト連邦共産党による一党独裁国家であった。
間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高会議)まで組織されることで国家が構成されていた。
ただし、こうしたソビエト制度が有効に機能した期間はほとんどないに等しく、実際にはソビエトの最小単位から最高単位まですべてに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党がすべてのソビエトを支配しており、事実上、一党独裁制の国家となっていた(ただし、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代は複数政党制であった)。こうした党による国家の各単位把握およびその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。
この細胞を張り巡らせる民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、アパラチキ(「器官」の意)による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上、存在しなかった。指導者選出のためのノーメンクラトゥーラ制度は縁故主義の温床となり、新たな階級を生み出した。一般の労働者や農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされておらず、むしろロマノフ朝時代より抑圧的で非民主的な一党独裁体制であった。そのため実質的に最高指導者であるソビエト連邦共産党書記長は「赤色皇帝」(赤は共産主義を表す色)とも呼ばれる。
スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、名目上の国家元首は最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党書記長が握っていた。
ブレジネフ以降は共産党書記長が最高会議幹部会議長を兼務するようになったが、最高会議幹部会議長の権限は儀礼的・名誉的なものであり、彼らの権力の源泉は支配政党である共産党の書記長職であった。
ソビエト連邦の指導者詳細は「ソビエト連邦の指導者の一覧」を参照
国家元首政府の長(首相)
中央執行委員会幹部会共同議長
ロシア連邦共和国代表
ミハイル・カリーニン(1922年12月30日 - 1938年1月12日)
ウクライナ共和国代表
グリゴリー・ペトロフスキー(1922年12月30日 - 1938年1月12日)
白ロシア共和国代表
アレクサンドル・チェルヴャコフ(1922年12月30日 - 1937年6月16日)
ザカフカース連邦共和国代表
ナリマン・ナリマノフ(1922年12月30日 - 1925年3月19日)
ガザンファル・ムサベコフ(1925年5月21日 - 1937年6月)
トルクメン共和国代表
ネディルバイ・アイタコフ(1925年5月21日 - 1937年7月21日)
ウズベク共和国代表
ファイズッラ・ホジャエフ(1925年5月21日 - 1937年6月17日)
タジク共和国代表
ヌスラトゥッロ・マクスム(ロシア語版)(1931年3月18日 - 1934年1月4日)
アブドゥッロ・ラヒンバエフ(1934年1月4日 - 1937年9月)
最高会議幹部会議長
ミハイル・カリーニン(1938年1月17日 - 1946年3月19日)
ニコライ・シュヴェルニク(1946年3月19日 - 1953年3月15日)