ソ連
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当初のソビエト連邦は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、そしてカフカースに位置したザカフカース連邦共和国の4共和国で構成されており[注釈 15]、その後の中央アジア民族境界策定作業や、1936年のザカフカース連邦共和国廃止、また第二次世界大戦前後のバルト三国併合とモルダヴィア共和国の置かれるベッサラビア地域の再領有、冬戦争でのカレリア獲得は十数以上の構成国を擁する要因となった。しかし、ザカフカースの解体によって共和国になったアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの3カ国と対照的に、共和国から自治共和国へと降ろされたカレリアの例もある。
憲法上の地位

構成国という存在は、憲法で明記されており、例えば1936年の連邦憲法では、構成国をこのように明記している。

...第13条 ソビエト社会主義共和国連邦は、平等の権利をもつ下記のソビエト社会主義共和国の自由意志による結合に基づいて形成された同盟国家である。

...第15条 連邦構成諸共和国は、それぞれ共和国の特殊性を考慮し、かつ連邦憲法の適合する範疇において固有の憲法を有する

...第17条 すべての連邦構成共和国に対して、連邦からの脱退の権利が留保される。

これらの規定は、およそ40年後の1977年に制定されたブレジネフ憲法においても明記される。しかし、構成国に保障された権利の大部分は終始形骸化しており、特に連邦からの脱退を明記した第17条では、脱退に向けた詳細な手続きが定まっていないなど、共和国の平等というものはもはや存在しないようなものであった。

国際社会では、ウクライナ共和国と白ロシア共和国が一国として国際連合に加盟するなど、構成国としての外交もごく一部で行われていた。
自治ソビエト社会主義共和国詳細は「ソビエト連邦の自治共和国」を参照

構成国内には、自治ソビエト社会主義共和国(Автономная Советская Социалистическая Республика 通称 АССР)が存在する場合があり、こちらはソビエト連邦を直接に構成するものではないものの、ソ連邦中央と現地との協議によって成立した。

自治ソビエト社会主義共和国(1987年現在)成立場所
バシキール自治ソビエト社会主義共和国1919年 ロシア連邦共和国
ブリヤート自治ソビエト社会主義共和国1956年ロシア連邦共和国
チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国1936年ロシア連邦共和国
チュヴァシ自治ソビエト社会主義共和国1925年ロシア連邦共和国
ダゲスタン自治ソビエト社会主義共和国1921年ロシア連邦共和国
カバルダ・バルカル自治ソビエト社会主義共和国1936年ロシア連邦共和国
カルムイク自治ソビエト社会主義共和国1935年ロシア連邦共和国
カレリア自治ソビエト社会主義共和国1923年ロシア連邦共和国
コミ自治ソビエト社会主義共和国1936年ロシア連邦共和国
マリ自治ソビエト社会主義共和国1936年ロシア連邦共和国
モルドヴィア自治ソビエト社会主義共和国1934年ロシア連邦共和国
北オセチア自治ソビエト社会主義共和国1934年ロシア連邦共和国
タタール自治ソビエト社会主義共和国1920年ロシア連邦共和国
トゥヴァ自治ソビエト社会主義共和国1961年ロシア連邦共和国
ウドムルト自治ソビエト社会主義共和国1934年ロシア連邦共和国
ヤクート自治ソビエト社会主義共和国1922年ロシア連邦共和国
ナヒチェヴァン自治ソビエト社会主義共和国1931年 アゼルバイジャン共和国
アブハズASSR1931年 グルジア共和国
アジャリアASSR1921年 グルジア共和国
カラカルパクASSR1932年 ウズベク共和国

憲法上の地位

1977年憲法では、第10章でこれが定められ、独自の憲法を制定する権利などが明記された。
自治区・自治管区
都市

ソビエト連邦の都市の起源は、中央アジアやカフカース地方では紀元前からの歴史をもつが、ルーシの歴史においては早くとも6世紀ごろからとなっている。しかし、ソ連時代に直結する都市の発展は帝政時代の19世紀、特に19世紀後半の改革によって成長を遂げたと言える。都市の年平均人口増加率は、1811年から1867年の56年間で1.5パーセントであったのに対し、1868年から1913年の45年間では2.3パーセントと増加[79]、その結果、1811年時点での都市人口277万人(全人口の7%)から、1867年で740万人(全人口の10%)、1914年になると2,328万人(12.5%)へと上昇した[79]。都市の規模に注目するなら、1811年時点で人口10万人以上の都市がペテルブルクとモスクワの2都市、1万人以上の人口を擁する都市が77[79]だけであったのが、1897年には人口10万都市が17、1万都市は356にも増えたことが明確にしてくれる。この凄まじい発展には帝政当時の鉄道建設、穀物移出、炭鉱、採油、繊維業などの全体的な産業の発展によるところが大きい。

これらの都市も、二度の革命と国内戦を経て荒廃し、1917年から1920年にはマイナス5.7パーセントの人口減を記録した。この数値は都市人口がおよそ500万人減少したことを示す[80]。しかし、ネップが功を収めたことにより1920年から1926年の都市人口増加率は年間3.7パーセントと、若干でありながらも回復傾向にあった[注釈 16]。1926年から1939年のソ連は国内戦の復興からも脱却し、ソビエト国家の発展に全力を注げた。この間に都市人口は倍近くに増加し、都市人口比率は30パーセントとなる[注釈 17]。この急速な発展が成功した理由としては、都市化自体に未発達が存在していたという面も存在するが、同時期の工業化政策によるところが大きいとされる。
代表する都市


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