ソーセージ
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ユダヤ人人口の多いニューヨークでは、牛肉製のフランクフルトやサラミが市販されている[9]

ブラッドソーセージ - 血を腸に詰めたもの。

レバーソーセージ - 材料の肉の一部をレバーに置き換えたもの。

魚肉ソーセージ

肉を使用しないソーセージ「en:vegetarian hot dog」も参照

ベジタリアンヴィーガンのために、肉を使用していない、ソーセージの味や食感を模倣した食品があり、国によっては市販されている[10]。これは、豆腐セイタンナッツ豆果、マイコプロテイン(英語版)、大豆タンパク質、野菜などでできており[11]、他の肉代替食品と同様に、肉の味や食感に近づけるための形状や味付けがされている。

また、ベジタリアン向けというわけではないが、伝統的な料理の中にも「ソーセージ」を称しながら肉を使用していないものがある。ウェールズグラモーガン・ソーセージは肉の模倣はしておらず、野菜の味が生かされている[12]。大豆のソーセージは1916年にドイツで発明されたものであるが、ベジタリアン向けに作られたわけではなかった。当時ケルン副市長で後にドイツの首相となるコンラート・アデナウアー第一次世界大戦中の肉不足の対策として考案したもので、ケルナー・ブルスト(ドイツ語版)(Kolner Wurst、ケルン・ソーセージ)と命名された[13]
日本

日本農林規格ではソーセージは、「肉を動物の腸などに詰めた食べ物」の総称であり、ウインナーフランクフルトチョリソーなどの種類がある。昔は[いつ?]、羊の腸を使ったソーセージをウインナー、豚の腸を使ったソーセージをフランクフルト、牛の腸を使ったソーセージをボロニアソーセージと定義していたが、製法が発達してケーシングには人工の薄い皮を使っている製品も誕生して以降は動物の腸の種類ではなく、ケーシングの太さによって、呼び名の区別をしている。羊の腸より豚の腸の方が太いので、ウインナーよりフランクフルトの方が見た目が太く、牛の腸を使うイタリアのボロニアはさらに太くなっている。

現行の定義でウインナーは「羊腸のソーセージ」又は「太さが20mm未満のソーセージ」の最小サイズ、フランクフルトは「豚腸のソーセージ」又は「太さが20mm以上36mm未満」、あまり普及していないがボロニアは「牛腸のソーセージ」又は「太さが36mm以上」の最大サイズとなっている。チョリソーは肉の製法が異なるソーセージの種類であり、一般的にソーセージがひき肉を使用するのに対して、刻み肉を使用したソーセージである。

更に階級があり、特級を「豚肉、牛肉のみ使用。結着材料を一切使用していないモノ」、上級を「豚肉、牛肉のみ使用。結着材料は5%以下、でん粉含有率が3%以下」、標準を「羊、うさぎ、鶏など、牛豚以外を混合。結着材料は10%以下、でん粉含有率が5%以下」と定めている[14][15]
日本のソーセージ史

1970年(昭和45年)に日本ハム・ソーセージ工業協同組合より発行された『食肉加工百年史』においても、今日肉製品と呼ばれているハム、ベーコン、ソーセージ類の製造がいつごろから開始されたかは明確には知りがたいとされている。食肉加工に関する文献では、1892年(明治25年)に博文舘より発行された農学士、今関常次郎の著書『農産製造?』に腸詰の製法の記述がある。本格的な製法は、1910年(明治43年)2月1日から3月2日に渡る30日間、農商務省種畜牧場渋谷分場にて開催された豚肉加工講習会で、農商務省嘱託技師であった飯田吉英により都道府県派遣の技術者に公開された。飯田は米国イリノイ州に留学して豚肉加工技術を学んでおり、この加工技術は主に米国式のものである。

一方民業では、1910年(明治43年)にドイツ人コックであったマーチン・ヘルツが横浜市山下町にて小規模ながら純ドイツ式のハム・ソーセージの店を開き、外国人に販売していた。千葉県匝瑳郡東陽村(現・山武郡横芝光町)から、山下町にあった豚肉卸問屋であった江戸清に見習いに来ていた大木市蔵(以下、市蔵)は、1912年(明治45年)、マーチン・ヘルツに弟子入りドイツ式ハム・ソーセージの加工技術を学ぶ。1914年(大正3年)、第一次世界大戦が開戦となると日独は交戦国となり、ドイツ人であったマーチン・ヘルツは収容所へ入れられそうになったが、市蔵が当時の神奈川県知事に掛け合い、最小規模の食肉加工業を知事より許され、ヘルツと市蔵はハム・ソーセージの製造販売会社、合資会社サシズヤ商会を設立し市蔵が代表者となる。市蔵は大正6年11月1日に開催された「第1回神奈川県畜産共進会」に日本で初めて出品し、1920年(大正9年)に独立。横浜市元町1丁目に合名会社大木ハム製造商会を設立。自身の事業に励むかたわら、大正末期から昭和初期にかけて東京帝国大学や東京農業大学で食肉加工技術の講義を担当するとともに、農商務省の嘱託(無給)で各地で豚肉加工の講習会を行い技術を各地に伝えた。また、自身の工場にも多くの弟子を受け入れ、1人前になるとその技術を必要とする企業の要望に応じ派遣した。1937年(昭和12年)に発行された大木ハム製造商会のパンフレットには、市蔵が日本で初めて製造を始め、またその弟子数十人を全国に派遣しているとともに、大学等の講習会で教えを受けた者は万人を超えるとの記述がある。この流れに属するものは大木流と呼ばれている。

1915年(大正4年)9月から1920年(大正9年)1月までの間、千葉県千葉郡幕張町実籾(現・習志野市東習志野)に第一次世界大戦中に日本の捕虜となったドイツ兵約1000人が収容されていた「習志野俘虜収容所」があった。1918年(大正7年)高栄養価食品としてソーセージに注目していた農商務省は、ドイツ国内でソーセージ職人だったカール・ヤーンら5人が収容所内でソーセージを製造している事を聞きつけ、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田吉英技師を収容所に派遣し、カール・ヤーン達からソーセージ製造の秘伝を公開してもらった。このソーセージ製造技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国の食肉加工業者に伝わった。この事から、習志野市は「日本のソーセージ製法 伝承の地」といわれるようになった。また、捕虜となったドイツ人の何人かは日本にとどまり、ヘルマン・ウォルシュケアウグスト・ローマイヤーカール・ブッチングハウスなどは日本にソーセージの文化を広める事に貢献するのであるが、当時は日常に親しまれていた食品ではなく、普及するまでには相当の時間を要した。


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