ソロン
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ソロンの父はエクセスティデスであったとされ、それが確かであればソロンの血筋はアテナイ最後の王、コドロス(英語版)に連なる[9]ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ソロンの兄弟、ドロピデスはプラトンから6代遡った先祖にあたる[10]。また、プルタルコスによれば、ソロンは、僭主ペイシストラトスはとこであった[8]

アテナイとメガラサラミス島の所有を巡って争っていた時、ソロンはアテナイ軍を指揮していた。度重なる失敗の後、ソロンは島についての詩を書くことで士気を高めた。ペイシストラトスの支持もあって、ソロン率いる軍勢は紀元前595年頃にメガラ軍に勝利した。この際、姑息な手を使ったとも、英雄的に戦ったともされる[11]。その後もメガラ人はサラミス島の権利を主張し続けたが、その論争にスパルタが参入し、最終的にアテナイに権利が与えられた[12]

ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ソロンは紀元前594年にアルコーンに選出された。「ソロンの改革」は、この任期中に実行された。ソロンは友人たちに、自身が計画している改革について話し、彼がアテナイにおいて、全ての借金を帳消しにしようとしていることを知った友人たちは借金をして、即座に土地を購入した。共謀の疑いをかけられたため、ソロン自身もその法に従い、自身の債務者を5タラントン(資料によっては15タラントン)の借金から解放した。また、彼の友人はその後、借金を返済することはなかったという[13]

改革の後、彼はアテナイ人たちが彼に法律の撤廃を求めることが出来ないようにと、10年間の旅に出た[14]。彼は最初にエジプトに立ち寄り、ヘロドトスによればそこで、ファラオのアマシス2世に謁見した[15]。プルタルコスによれば、彼はエジプトの神官、ヘリオポリスのプセノピスや、サイスのソンキスとも対話をしたという[16]。また、プラトンの対話篇『ティマイオス』と『クリティアス』によれば、彼はサイスネイトの神殿を訪れ、神官たちからアトランティスについて聞いたとされる。次にソロンはキプロス島へ向かい、島の王のための新たな首都建設を監督し、それに対する感謝として王はその地を「ソロイ」と名付けた[16]処刑を待つクロイソス(アッティカ赤絵式アンフォラ。紀元前500?490年 ルーヴル美術館G 197)

最終的に彼はリュディアの首都サルディスへ到達した。ヘロドトスとプルタルコスによれば、彼はクロイソスに出会って助言を与えた。クロイソスは自身を最も幸福な人間であると自負していたが、ソロンは彼に、「人は死ぬまで幸福であり続けるとは限らない」と言った。クロイソスがその言葉の意味を理解したのは、ペルシア帝国の王キュロス2世との戦争に敗北し、捕虜となった後の事であった[15][17]

アテナイに戻った後、ソロンはペイシストラトスに反対する立場をとった。彼に抗議するため、そして他者の手本となるために、ソロンは武装して家の外に立ち、通行人に、僭主にならんとしているペイシストラトスに対抗するよう働きかけたが、効果は得られなかった。ペイシストラトスがアテナイにおける権力を力ずくで奪い取った直後、ソロンは死亡した[18]。死んだ時、ソロンはキプロスにおり、80歳であった。彼の希望に従い、遺灰はサラミス島の周囲に散骨された[19][20]

旅行家のパウサニアスは、デルポイのアポロン神殿に格言が刻まれている七賢人の一人として、ソロンの名を挙げている[21]。ストバイオスはFlorilegiumでソロンの幼い甥がサッポーの詩を朗誦したシンポシュオン(饗宴)について書いている。朗誦を聞いたソロンは彼に歌い方を教えるよう頼んだという。それに対して別の誰かが「なぜそのようなことに時間を浪費するのか?」と尋ねた際、ソロンは「死ぬ前に覚えるためだ[注 2]」と答えたという[22]
ソロンの改革の背景

ソロンの時代、古代ギリシアの多くのポリスには、僭主や、日和見主義でありながら都市の実権の多くを掌握する貴族が存在した。


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