ソロモン諸島の戦い(ソロモンしょとうのたたかい)は、第二次世界大戦[注釈 1]中に日本軍と連合軍の間で、南太平洋ソロモン諸島の争奪をめぐり行われた戦闘である。
一連の戦闘の中で大きなものはガダルカナル島の戦いとブーゲンビル島の戦いであるが、このほかにも多くの陸海空の戦闘が行われた。 太平洋をめぐる日本と連合国との戦いは、緒戦の南方作戦では周到に準備した日本軍が西太平洋を制し、南方資源地帯を押さえる結果となった。資源的に余裕が出てきた日本軍は第二段作戦として、陸軍の中国・インドを押さえようという案と、海軍のオーストラリアを押さえる案とが浮上してきた。 しかし、海軍軍令部はオーストラリアを押さえるには新たに20万人程度の軍が必要と試算、陸軍側と折衝したが中国戦線を主戦場と見る陸軍側はこれを拒否した。このため軍令部はアメリカとオーストラリアの間の交通を分断し、オーストラリアを孤立させ、休戦させるという構想(米豪遮断作戦)を立て、陸軍の了承を得るにいたった。そのため、日本海軍はフィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略するFS作戦を計画した。1942年4月頃の日本海軍の作戦計画は次のとおりであった[1]。 ガダルカナル島のすぐ北に位置するフロリダ島のツラギは、珊瑚海海戦直前の5月3日に日本軍が占領した。詳細は「珊瑚海海戦#ツラギ攻略」を参照 すぐにツラギに哨戒活動用の水上機を配備し、ツラギの部隊はガダルカナル島に飛行場適地があることを報告した。6月のミッドウェー海戦の敗北の直後、日本軍はFS作戦の2ヶ月延期を決定したが、ツラギの強化やFS作戦のためにガダルカナル島に飛行場を建設することとし、1942年7月6日に飛行場設営隊が島に上陸して建設が始まった。同じ頃、FS作戦の中止が決定したが、飛行場の建設はそのまま進められ、8月5日には完成して、16日に戦闘機を派遣する予定であった。ただ、この頃の日本軍の関心はFS作戦が中止になったことでソロモン諸島よりもニューギニアのポートモレスビーを再攻略(5月の攻略作戦は珊瑚海海戦のため、途中で中止)することに向いていた。 一方、7月2日に連合軍はウォッチタワー作戦と呼ばれる対日反攻作戦を発動し、8月7日にガダルカナル島で日本軍が建設中の飛行場の奪取と、フロリダ島のツラギにある日本軍基地の攻略のため、アメリカ海兵隊第1海兵師団を主力とするアメリカ軍が両島に上陸した。 同時期、ニューギニアでも日本軍のポートモレスビー陸路攻略作戦が行われていたが、ガダルカナル島の戦いが始まると日本軍は戦力(兵員、航空機、艦船)をガダルカナル島に優先投入した。日本海軍はインド洋で大規模な作戦を行う予定であったが、こちらも中止された[2]。 ガダルカナル島のすぐ北に位置するフロリダ島の入江にある3つの小島(ツラギ、タナンボコ、ガブツ)に日本海軍の横浜海軍航空隊(水上機部隊)と陸戦隊(第八十四警備隊)の800名弱[3]が駐留し、水上機による周辺の哨戒活動を行っていた。8月7日、アメリカ海兵隊が上陸し、激戦となったが翌8日に占領された。日本軍は少数の捕虜を除き全滅した。 1942年(昭和17年)7月6日、日本海軍はガダルカナル島に飛行場設営隊とわずかな守備隊を送り込みルンガ飛行場(後のヘンダーソン飛行場、ホニアラ国際空港)の建設を開始し、8月5日に第一期工事を完成した。一方この情報をつかんだアメリカ軍は、8月7日にガダルカナル島に海兵隊10,000名[4]を上陸させて、さしたる抵抗も受けずに飛行場を占領した。またこれと同時にフロリダ島、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に対しても陸海共同の占領作戦が行われた。
背景
5月上旬 - ポートモレスビー攻略作戦
6月上旬 - ミッドウェー、アリューシャン作戦
7月 - FS作戦
ガダルカナル島をめぐる戦い
フロリダ諸島1942年時の前線詳細は「フロリダ諸島の戦い」を参照
ガダルカナル島連合軍の補給線詳細は「ガダルカナル島の戦い」を参照