ソマリランド
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アフリカの角と呼ばれる地域のうち、旧イギリス領ソマリランド領土とする。東部はソマリア、南部はエチオピア、西部はジブチと接し、北はアデン湾に面する。内戦に陥ったソマリアの北西部が1991年5月、同国からの再独立を宣言して成立した。首都機能をハルゲイサに置き、実質的に独立国家として機能しており、2021年8月時点で国家の承認をしている国際連合加盟国はないものの、2020年7月に中華民国台湾)が外交関係を樹立、2024年1月にはエチオピアが外交関係を樹立したほか、ケニアのように代表機関の設置や要人往来で公的な関係を持つ国がいくつか存在する[6](「#外交」「ムセ・ビヒ・アブディ#ソマリランド大統領」参照)。

国連非加盟国のなかでは最大の面積の実効支配地域を持つ。
国名

ソマリランドは英語でソマリ族(Somali)と土地(land)を合体したもので、「ソマリ族(人)の地」という意味。広義にはソマリ族が多く居住するアフリカの角全域を指す。列強アフリカ分割後、イギリスに割り当てられた地域(植民地)を指す言葉となり、1960年にソマリアと合邦するまでの短期間のみ独立する際も植民地時代と同じくソマリランドがそのまま用いられた。ソマリランド共和国は1960年の独立を回復したという位置付けであるため、名称をそのまま継承している。

公用語表記は以下の通り。カッコ内はラテン文字転写。

ソマリ語: Jamhuuriyadda Soomaaliland、略称はSomaliland。

アラビア語: ??????? ??? ???????‎ (Jumh?r?yat Ar? a?-??m?l)または??????? ??????????‎ (Jumh?r?yat ??m?l?l?nd)。略称は??????????‎ (??m?l?l?ndまたは??? ???????‎ (Ar? a?-??m?l)。

英語: Republic of Somaliland、略称はSomaliland。

日本語ではソマリランド共和国、通称ソマリランドが一般的である。日本では国名の漢字表記は行われていないが、ソマリランドと国交のある中華民国(台湾)では索馬利蘭と表記する[7]

ソマリア時代は、南に位置する旧イタリア領ソマリランドと対比して北部地域(Northern Regions)と呼ばれた。現在でもまれに使用例がある[8]
歴史詳細は「ソマリランドの歴史」を参照
紀元前

紀元前5000年ごろの作とされる洞窟壁画がラース・ゲールに存在する。
植民地時代詳細は「イギリス領ソマリランド」を参照ソマリ人地域(歴史的なソマリランド)と氏族分布

ソマリランドは元来「ソマリ人の地」という意味で、ソマリ人が居住するアフリカ大陸東端地域をそう呼んでいた。この地域は19世紀末?20世紀初頭のアフリカ分割により、イギリス、フランス、イタリア、エチオピア帝国に分割された。そして、アデン湾の対岸を支配するイギリス軍が湾を渡って浸透し、イサック氏族、イッサ族ダロッド氏族の一部と協定を結んだ結果、1887年イギリス帝国保護領となり、1905年に植民地化されイギリス領ソマリランドとなった。
ソマリア共和国

イギリス領ソマリランドは1960年6月26日ソマリランド国英語: State of Somaliland)として独立した。ただしこれは同年7月1日に予定されたイタリア信託統治領ソマリアの独立を見越して同地域との統合を目的とした措置で、この独立は5日間だけであった。そして予定通り7月1日に両地域は統合され、「ソマリア共和国」が発足した。

ところがモガディシオの中央政府は南部出身者が主導権を掌握し、南部優遇の経済政策などを推し進めた。北部で産出した農作物・果物類は輸出されたが、得た外貨は南部の開発に費やされた。オガデン戦争(1977年 - 1988年)では戦火を被り、そこへ追い打ちをかけるように当時の人口に匹敵する130万人超が難民として押し寄せた結果、経済は圧迫され政治は混乱した[9]。住民は中央政府へ反発したが、政府軍によって弾圧・虐殺された(イサック・ジェノサイド(英語版))。

北部地域ではソマリア中央政府および南部地域への反感が強くなり、ソマリアからの分離独立を求める声も高まっていった。全国各地で中央政府に対する反乱が起こった際、北部地域ではイサック主体のソマリ国民運動が1988年に蜂起し、1991年1月に当時の大統領モハメド・シアド・バーレが国外へ追放されるころには北部地域を掌握した(ソマリア革命(英語版))。
分離再独立

1991年1月にバーレ政権が崩壊した後、それまでの南部優遇政策と混迷を極めるソマリア情勢に失望したイサック主体のソマリ国民運動(SNM)は、1991年5月18日に旧イギリス領ソマリランド地域の分離・再独立を宣言し、24日に新生ソマリランド共和国を発足させた。見方を変えると、1960年に5日だけ出現して消滅したソマリランド国が31年ぶりに復活したことになり、ソマリランド政府も「独立を回復した」という立場をとっている。

初代大統領にはSNM議長のアブドゥラフマン・アリ・トゥールが就任し、その後1993年5月の選挙で第2代大統領にイブラヒム・エガルが選出された。エガルは2002年に在任中に死去し、副大統領だったダヒル・リヤレ・カヒンが大統領に昇格した。翌年の大統領選挙でカヒンが当選した。2005年10月に下院の議会選挙が行われ、3党が82議席を争った。その結果、カヒン政権の与党統一人民民主党が33議席を獲得して第1党になり、次いで平和統一開発党(クルミエ) (Peace, Unity, and Development Party) が28議席、正義開発党 (For Justice and Development) が21議席を獲得した。

2009年に大統領選挙を実施する予定だったが、選挙人名簿の不備を理由に政府は延期を重ね、8月に選挙人名簿無しのまま選挙戦が始まった。これに対し、野党が反発。野党が優勢な下院は大統領選を再考する決議を採択した。2009年8月29日、野党が優勢なソマリランド下院を、大統領の命を受けたソマリランド軍が武力で制圧。議員は議場に入れない状態となった。イギリスとアフリカ連合、エチオピアが仲裁に乗り出した。

2010年6月26日に大統領選挙が行われ、現地の選挙管理委員会は最大野党クルミエ党首のアフメド・モハンマド・シランヨの当選を発表した[10]。2012年に一部領域がチャツモ国として独立を宣言したが、2017年10月20日に両者合意のもと、ソマリランドが再吸収した[11]
国際関係ソマリアの勢力図。黄色がソマリランド(勢力分布は年々変化する)。ソマリランドの地理的地図。

ソマリランド側はソマリア暫定連邦政府(後に正式な政府に改編)に対して激しく反発しており、ソマリアとの再統合は、もはや不可能な情勢になっている。現地住民の多くは自らソマリランド人と認識し、治安が良く平和なソマリランドは、破綻国家のソマリアは全く別の国であると考えている[6]

隣国のエチオピアはハルゲイサに事実上の大使館を設置しており[6]、両国は緊密な関係を保持している[12]エリトリアの独立によって内陸国になったエチオピアにとって、ソマリランドの港湾都市ベルベラ貿易ルートとして重要という背景もあり、コンテナ取扱施設拡張の完成式典に代表を派遣した[6]

2020年12月には、ムセ・ビヒ・アブディ大統領の公式訪問を、ソマリアとの関係が悪化しているケニアが受け入れた[6]


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