ソマリア
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現在の国土はソマリア連邦共和国政府が統治する中南部と、91年に独立宣言した旧英領のソマリランド共和国(首都ハルゲイサ、国際的に未承認、東部地域でプントランドと領土紛争)の北部、おもに南部に展開するイスラム急進派アッシャバーブ支配域に大きく3分割されている。

また連邦共和国政府内部も、北東部で1998年7月に自治宣言したプントランド(首都ガローウェ)、中部のガルムドゥグ、南部の南西ソマリア、最南のジュバランド(軍閥ラスカンボニが母体)といった自治地域を含有しており、統一はされていない。
国名

正式名称はソマリ語で「Jamhuuriyadda Federaalka Soomaaliya」。アラビア語で「??????? ??????? ?????????」、英語で「Federal Republic of Somalia」。通称Somalia、国民・形容詞ともSomali。日本語の表記は「ソマリア連邦共和国」。

ソマリアの公式国名を「ソマリア民主共和国(Somali Democratic Republic)」とする場合が多かったが、これはモハメド・シアド・バーレ政権下で「ソマリア民主共和国憲法」が有効であった時期の国名である。1991年に同政権が崩壊し憲法が廃止され、その後の暫定政府は「ソマリア共和国(Republic of Somalia)」を国名としていたが、全土を実効支配しておらず、公式国名とは見なされていなかった。2012年8月、暫定政権の統治終了を受けて公式国名がソマリア連邦共和国に改称された。

1960年 - 1969年、ソマリア共和国

1969年 - 1991年、ソマリア民主共和国

1991年 - 2012年、ソマリア(公式国名なし)

2012年 - ソマリア連邦共和国

歴史詳細は「ソマリアの歴史(英語版)」および「ソマリアの海事史」を参照
プント国詳細は「プント国」を参照

紀元前26世紀エジプト第4王朝クフ王にプント国から黄金がもたらされたという記録がある。

紀元前25世紀エジプト第5王朝サフラー王にプント国から没薬白金がもたらされたという記録がある。

紀元前21世紀エジプト第11王朝メンチュヘテプ2世がプント国に商隊を送ったという記録がある。

紀元前15世紀エジプト第18王朝ハトシェプスト女王にプント国から乳香没薬がもたらされたという記録がある。

紀元前1500年ごろから香料の産地としてエジプト、近隣諸国に知れていた。

紀元前1070年ごろ、エジプト第20王朝が滅亡するとプント国とエジプトの交易は途絶え、古代オリエント世界との交流が途絶えた。

ソマリ族の到来とソマリアのイスラム化13世紀のFakr ad-Dinモスク(英語版)詳細は「ソマリ族」、「モガディシュ王国(英語版)」、「イファト・スルタン国」、「アダル・スルタン国」、「アジュラーン・スルタン国」、および「en:Warsangali Sultanate」を参照

10 - 14世紀の間に、アラビア半島南部から遊牧民ソマリ族が移住してきた。彼らは早くからアラブペルシャと交易していた。
植民地時代詳細は「en:Geledi sultanate」、「en:Sultanate of Hobyo」、および「en:Dervish state」を参照

ソマリ人は元々6つの氏族に分かれ、それぞれの氏族に帰属意識を持って暮らしていた。しかし第二次世界大戦でイギリス軍がイタリア領ソマリランドを占領、またイタリアが占領していたエチオピアも41年に皇帝軍が奪還すると、東部のオガデン地方はイギリスが暫定統治することになり、ケニア北東部を含めイギリス支配の下にソマリ人居住地域は統一されることになった。その中で1943年にはソマリ青年クラブ(後にソマリ青年連盟=SYLに改称)が結成されると、居住区域で反発を続けた。独立直前には、イタリア領ではSYLが、イギリス領でもSYLの影響を受けたソマリランド民族連盟(SNL)が第一党となった[4]

1886年イギリスが北部をイギリス領ソマリランドとして領有。このころ、南部はイタリアの保護領であった。

1908年までにイタリアが南部をイタリア領ソマリランドとして領有。第二次世界大戦中、一時はイタリアが全土を占領、イタリア領東アフリカの一部となったが、その後イギリスの施政下に。

1948年に北部がイギリスの保護領に。

1950年には南部がイタリア信託統治領ソマリアに。

独立後

1960年4月にイタリア領とイギリス領の両リーダーが会談して統合を宣言すると、SYLのアデン・アブドラ・ウスマンが大統領に、SNLのイブラヒム・エガルが首相に就任した。しかしイーガルは半月足らずで国防相に格下げされ@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}南部出身者に占められ[要追加記述]、また植民地時代の定数を引き継いだ議席数は人口比でも南部優位であるなど、南部に優位な政治が取られるようになった[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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