ソマリア内戦
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2000年5月、隣国ジブチで和平会議が開催され、実業家や氏族代表らが集まり暫定政府樹立に向けて討議を行った。討議は約3ヶ月にも及んだが、最終的に暫定大統領、暫定首相、暫定議会の発足を約束した。8月には和平会議に基づき暫定議会が発足し、任期3年の暫定大統領に元内相のハッサンが就任、10月にハッサン暫定大統領はガライド元工業相を首相に任命、約10年ぶりに政権が発足した。しかし、アイディード派などの有力氏族およびソマリランドなど独立勢力は暫定政府を「ジブチの傀儡」として承認せず、その後も内戦が続いた。

2001年10月には暫定議会がガライド首相の不信任案を可決し、新首相にファラ水資源・鉱業相が就任した。ファラ首相は2002年2月、武装勢力の代表を初めて入閣させた新内閣を発足させた。暫定政府と対立する有力氏族でつくるソマリア和解再生評議会(SRRC)は、4月1日にバイドアを首都とし南西部地域自治政府の樹立を発表、いわゆる南西ソマリアが成立した。自治政府大統領にはSRRCの共同議長の1人であるシャティグドゥド(RRA指導者)が就任。独立・自治宣言をし事実上分離状態に陥ったのはこれで3例目であった。

2002年11月ケニアで起きた同時テロでは、ソマリアのイスラム原理主義組織アル・イッティハド・アル・イスラミ(AIAI)の関与が疑われた。内戦で統治機構が崩壊し、アフガニスタンのように過激派組織の温床となっているのではないか、と米国に疑惑をもたれたがハッサン政権は否定した。

和平合意案がケニアのナイロビで協議されてきたが、2003年7月に4年後の連邦政府樹立などで合意しファラ首相が調印、しかし、この調印がハッサン大統領の承認無しに行われたとして大統領は首相を非難し、協議途中で帰国した。

2003年8月、ファラ首相の不信任案が暫定議会で可決されたが、ファラ陣営は出席議員数が決議に必要な数を下回っているとして無効を主張、ハッサン大統領はムハンマド・アブディ・ユスフを新首相に任命した。またハッサン大統領は同年同月に3年の任期満了をむかえても、新政権が発足するまで職に留まる意向を表明した。
ユスフ暫定政権

2004年10月10日、ケニアのナイロビで開催された暫定議会がプントランド大統領のアブドゥラヒ・ユスフを新大統領に選出。この暫定議会にはソマリランド以外の全ての勢力が参加し、正式な中央政権が成立する足がかりとなるか注目された。アイディード派からはフセイン・アイディードが副首相兼内相、アト派からはアリ・アトが住宅・公共事業相、南西ソマリアからはシャティグドゥド大統領が農相として入閣し、暫定連邦政府が成立した。しかし、暫定議会の招集に応じなかったソマリランドは反発した。

ユスフ大統領は2005年6月13日より、ナイロビに拠点を置くソマリア暫定連邦政府の本国帰還を開始した。アリー・ムハンマド・ゲーディ首相や閣僚らとともに、ソマリア内の治安回復と施政権獲得の機会を模索した。ソマリアは国内にはソマリランド共和国・プントランド共和国・南西ソマリアなどの「国家」や軍閥が乱立しており、さながら群雄割拠の様相を見せていた。ソマリアは元々氏族社会であるため、地域同士の対立はもちろん氏族同士での対立も頻発している。特に、ソマリランド共和国はアフリカ諸国の中でも異例なほどに安定した経済と民主主義による政治を行っていると喧伝しており、ソマリアとは別個の国家と主張している。プントランドや南西ソマリアは暫定連邦政府への協力を表明している。
イスラム法廷会議詳細は「w:Advance of the Islamic Courts Union」を参照イスラム法廷会議の支配地域の拡大(2006年)

1994年、内戦の泥沼の中で南部にてイスラム原理主義の「イスラム法廷連合」(後にイスラム法廷会議へ改称)が結成、勢力を急速に伸ばした。法廷連合はイスラム聖職者の指導により、治安の悪化した市街地などで、イスラム法にのっとった自警団的な役割を果たす集団として国民の支持を拡大、人気と武力を持ってソマリア南部を制圧。
2006年6月には、首都モガディシュを占領した。しかし、支配地ではイスラム法に則った厳格な法令を敷き、女性の権利縮小や、娯楽の禁止、公開処刑など、人権問題が目立ち、アフガニスタンターリバーンに似た性格も持っていた。自主的に学校教育を行うなど、福祉的な一面も持つが、教育は原理主義的要素を多分に取り入れ、生徒を過激思想に染める事を意図したものであった。さらには国際テロリストであるアル・カーイダとの関与が疑われており、暫定政権を推すアメリカとの対立は避けられなくなった。

法廷連合の首都制圧にもっとも危機感を抱いたのは、隣国エチオピアであった。エチオピアは北隣のエリトリアと国境問題で対立しているが、エリトリアが法廷連合を援助しているとして、非常に危機感を持っていたのである。また、エリトリアとソマリアの両国はイスラム教国であり、イスラム教徒も多いとはいえ基本的にはキリスト教国のエチオピアは、原理主義の台頭は対立の再燃をもたらす火種となることは、容易に想像できた。法廷連合が首都を制圧した6月、国連はソマリアへの武器供与を禁じる決議を採択したが、エチオピアは7月に軍地上部隊数千人を暫定政権拠点のバイドアに展開しており、国連決議を無視して暫定政権軍への武器供与を行った。アフリカ連合はたびたび撤退を求めたが、アメリカが駐留を支持した為、エチオピア軍は駐留と武器供与を続けた。
エチオピア軍侵攻詳細は「w:War in Somalia (2006?09)」および「w:2007 timeline of the War in Somalia」を参照エチオピアとイスラム法廷連合の戦闘(2006年12月24日)

2006年12月6日国連安保理はソマリアへの国際平和維持部隊(8000人規模)派遣と武器禁輸の一部緩和を含んだ国連決議1725を採択したが、12月下旬にはイスラム法廷連合が暫定政府の拠点バイドアに攻勢をかけ、20日には展開していたエチオピア軍との間に戦闘が発生した。バイドアはエチオピアとの国境に近く、ここの陥落はエチオピアにとって危機であった。

12月24日、エチオピアはこれまで認めていなかったソマリア派兵の事実を確認、エチオピア軍は航空機ミサイルにより、法廷連合軍に攻撃を加えた。暫定政府を支持するエチオピアの首相メレス・ゼナウィは、自国の国家主権保全を理由に、法廷連合と「戦争状態」に突入したことを認めたが、対テロ戦争と位置づけ、同時に国連AUEUによる和平活動を支持した。その日のうちに、空軍による法廷連合支配都市への空爆が開始され、25日には地上軍およそ1万5000人がモガディシュへ進軍を始めた。26日27日の国連安保理では、12月の議長国カタールが「外国軍隊の即時撤退」決議を提案したが、などが反対して採決に至らなかった。またアラブ連盟もエチオピアの軍事活動の即座停止を求め、AUも同調したが、アメリカはエチオピアを支持し、EUも静観の姿勢を採るなど、国連も2つに割れた。

モガディシュを包囲したエチオピア軍と暫定政府軍は、28日に街の北と西から突入、既に1000人以上の死者を出した法廷連合はモガディシュを放棄し、暫定政府は発足以来、初めて首都を制圧した。29日にはゲーディ首相が暫定政府要人として初めて首都入りを果たし、その他の閣僚も次々に首都入りした。2007年1月1日、エチオピア軍と暫定政府軍は、法廷連合が最後の拠点とした沿岸都市キスマユに対して激しい攻撃を加え、法廷連合は南部のケニア国境方面に撤退した。これにより、暫定政府軍は北部のソマリランドプントランドなどの一部を除き、ソマリア全土を制圧した。後に、この侵攻作戦には米軍特殊部隊がアドバイザーとして参加(12月に現地入り)していたことが公表された。

2007年1月1日、暫定政府は法廷会議に対する勝利宣言を行った。しかし、先のオガデン戦争によって国民の対エチオピア感情は悪く、自前の軍事力が小さい暫定政府は、治安維持や軍事行動をエチオピア軍に頼らなければならないが、駐留が長引けば暫定政府への反発が広がる矛盾を抱えての出発となった。一方のエチオピア政府は、AU展開が進めば2週間程度で撤退することを示唆した。4日にアイディード副首相は、8000人規模の治安部隊創設を示唆し、また国際部隊の早期派遣を要望した。5日にはケニアで国連、AU、アラブ連合、EU、周辺各国の代表者会議が行われ、暫定政府はPKOの派遣と国際復興支援を要請した。また、ゲーディ首相はエチオピア軍が平和維持軍へ編入されることを期待すると共に、6日より国民の武装解除を強制的に実施すると宣言したが、エチオピア軍の駐留に反対する市民のデモが相次ぎ一部が暴徒化、軍や警察と銃撃戦が発生し、死傷者が出た。このような国内混乱を懸念して、フレイザー米国務次官(アフリカ担当)の訪問が無期延期となった。8日にはユスフ大統領もモガディシュ入りした。

7日、暫定政府軍とエチオピア軍は、法廷会議の最後の拠点ラス・カンボニへの攻撃を開始、12日に制圧し、法廷会議はケニア国境付近の森林へ逃走した。しかし国内には残党が存在しており、9日には武装勢力がエチオピア軍に攻撃を行ったため、エチオピア軍が反撃して交戦となった。ソマリア暫定議会は混乱解消の為、13日に3ヶ月間の戒厳令実施を可決した。無許可デモと武器携帯の禁止およびエチオピア軍駐留継続の根拠となる。戒厳令により、武装勢力7派が武装解除に応じ、19日までに3派がテクニカル70台と迫撃砲200門を政府に引き渡した。一方、同日夜に大統領公邸に迫撃砲弾数発が打ち込まれ、暫定政府軍とエチオピア軍が応戦、銃撃戦となった。犯行は法廷連合の残党によるものと思われる。また同日、エチオピアのメレス首相は国民の反エチオピア感情に配慮する形で軍の撤退を示唆し、代わってAUが平和維持軍9大隊7650人を派遣する事を決定した。しかし、治安の悪化と財源不足のため、参加国・派遣期間などは決定しなかった。24日には国際連合開発計画の代表団を乗せた旅客機がモガディシュの空港へ着陸した際、迫撃砲で攻撃された。


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