ソポクレス
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その逆に、ソポクレスは人を儚いものと位置づけており[49]、過ぎ行く時の前には無力な存在であることを強調する[50]。『アイアース』ではコロスが「全能なる時間が消し去れぬものはない」と船乗りたちの唄を歌う[51]

神々との隔絶はしかし、神的な介入を妨げない。ソポクレス劇が神々の介入を受けるのは、ただ神託のみであって、アイスキュロス劇のように「神の正義」が示されることはない。また、その神託は神が決めた通りに動く人間の配役表に過ぎない[48]。『トラキスの女たち』では冒頭でデーイアネイラが、「ヘーラクレースは思いがけなく命を落とす。勝利を得るが、それゆえに人生最後の日々を平穏に過ごすことは決してないであろう。」という神託を述べる[52]。『アイアース』ではカルカースの予言を、伝令が伝えて次のように言う。「もしも我々が彼を助けんとし、いずれの神の御加護によってか、彼がこの日々に命を永らえたとしたならば、アテーナーの怒りはこの程度では済まぬ」[53]。ヘーラクレースの言葉によれば、ピロクテーテースはトロイアでしか治癒し得ない。しかし彼はトロイアにたどり着けるだろうか[54]?神託はしばしば不正確で曖昧なものであると考えられるので、神託には「希望を抱いたり過ちを犯したりする余地が残されている」[55]。時には、ヘーラクレースが息を引き取る場面のように、託宣を下す神々同士の歩み寄りが解決をもたらすこともある。ヘーラクレースは、父に下された託宣どおり、死ぬほどの苦痛にさいなまれて死ぬ。死という安らぎをヘーラクレースに与えるものは、妻デーイアネイラが夫の下着に塗ったネッソスの血であった[56]。神託がその通りにならないという余地が残されていることは、演じられている人物の運命に予期せぬ展開がもたらされるということでもある。Romillyによると、人間は運命の皮肉と呼びうるようなものの玩具に過ぎないという考えの上にソポクレスのドラマツルギーは成り立っている[55]。ソポクレスに特徴的なそれは、悲劇の観客の目には意味が明瞭であるが、劇中人物たちにとっては必ずしも意味が明らかではない悲劇的アイロニーである[57]。アイスキュロス悲劇とエウリーピデース悲劇における悲劇的アイロニーは、劇中人物が他の人物をだますというかたちになるが[58][59]、ソポクレス悲劇ではごく稀な例外を除いて、劇中人物同士であざむくことがなく、例えば『トラキスの女たち』で言えば、デーイアネイラがヘーラクレースを殺すための道具にされてしまい、英雄の死の前にコロスが希望の歌を歌うといったかたちになる[60]。『アイアース』、『アンティゴネー』における悲劇的アイロニーも同様である[61][62][63]。ソポクレス悲劇においてほしいままに振舞うのは、人間ではなくて神々である。

上述のような神々の遠さと悲劇的アイロニーは、『オイディプース王』において最も成功したかたちで見ることができる。自分が「父親を殺し母親とまぐわう」人物であることを知るためのオイディプースの「悲劇的探求」は、オイディプースが彼に対して宣告された神託から逃れるために行ったものではある。しかし、オイディプースはこの探求により、まったくの故意なく行った行動の結果を知ることになった。『オイディプース王』において顕著な、このアイロニーの完全性は、神々の残酷さ、あるいは無関心ゆえに引き起こされたと解釈されるべきではない。なぜなら、オイディプースは他の作品『コローノスのオイディプース』の中で加護される運命にあるからである[48]。敬虔なソポクレスによれば、「人間は理解はせずとも崇拝はする」ものであり、クレオン、オイディプース、イオカステーは、神々や神託を軽んじた対価を支払う。悲劇は人間の過ちゆえに引き起こされたのである[64]
ソポクレス劇の英雄像

演劇様式の発展におけるソポクレス劇が果たした役割に鑑みると、ソポクレス劇は人間中心であると考えられるかもしれない。しかし、作品のタイトルには、たいていの場合英雄の名前がつけられ、英雄は他の人物とは対照的である。英雄の英雄たるゆえんは、「人間のいかなる援助からも自ら進んで離れていようとする振る舞い」によって確認される[65]。オイディプースの娘アンティゴネーは当初、妹のイスメーネー(フランス語版)に一緒に行動を起こすことを持ちかける。ところが妹に断られたことでむしろ頑なになり、クレオンの怒りを前にしてイスメーネーに協力してもらうべきときでさえも一切の助力を拒否せざるを得なくなる。「あなたはわたくしに従うことを望みませんでしたし、わたくしもあなたを、わたくしの謀議に関わらせませんでした」[66]。かくしてアンティゴネーは早くも独り、「友なく、夫もなく」[67]、「みなに見棄てられる」[68]。彼女がなしたことを歌いなおすコロスは、彼女が狂気にあると歌う[69]。『アイアース』の冒頭で示されるアイアースの狂気は、アンティゴネーの狂気に比肩しうるものである。アイアースは、船乗りたちの合唱やテクメッサと息子らによる慰めの一切を拒絶して、「孤独を自らの心の中に放り込む」[70]。そして作品は、孤独そのものといったシーンの周りに、アイアースの独白と自決を有機的に連関させる。アイアースの決別の言葉を聞く者は誰一人おらず、アイアースが自らの思いを訴えかける相手は、太陽、サラミス島アテーナイトロイアの景観である[71]

これらの要素は『エーレクトラー』においても認めることができる。家族に見棄てられたヒロインは、弟オレステースの死を知り、妹クリューソテミスに助力を断られる。頂点に達した孤独の中で、エーレクトラーは「もうよい!わたくしが自らたった一人で企てをやり遂げましょう」と叫び、心を決める[72]。ジャクリーヌ・ド・ロミリーの解説によると、ヒロインをヒロインたらしめるのは孤独である[65]。『ピロクテーテース』においても、英雄はネオプトレモスが奪いに来た弓の他に何も持たず、ただ独り、見棄てられていた。

ソポクレスは、「英雄の選択」というモチーフを表現するにあたって、オイディプースという神話上の英雄に最良の適用例を見出す。『コローノスのオイディプース』において英雄は、息子たちに拒まれ、人を遠ざける盲目の放浪者である。孤独は作中でクレオンがオイディプースから娘たちを引き離すことにより、ますます強められ、倫理的問題も加わって、オイディプースが我が行いの報いはもう十分に何度も受けたと断言するに至る[73]。ソポクレスは、オイディプースを孤独から解放しない。オイディプースは町外れに住み、誰にも見取られることなく死ぬ[74]。しかしながら、この孤独こそが英雄の卓越性と神から与えられた特権を証し立てするものになる[65]。「ソポクレス悲劇の英雄は、他の悲劇の英雄と同じく、例外的な存在である。しかし、他者との違いはわずかしかなく、英雄は例外的な人間に過ぎない」[75]
日本語訳

『ギリシア悲劇全集』
岩波書店

『(3)ソポクレース I』 1990年、ISBN 4000916033

『(4)ソポクレース II』 1990年、ISBN 4000916041

『(11)ソポクレース断片』 1991年、ISBN 4000916114


『ギリシア悲劇 II ソポクレス』 筑摩書房ちくま文庫〉、1986年、ISBN 4480020128

元版『世界古典文学全集(8) アイスキュロス・ソポクレス』
筑摩書房、初版1964年、復刊2005年ほか、ISBN 4480203087

『希臘悲壯劇 ソポクレース』 理想社、1941年

『ギリシア悲劇全集 II』 人文書院、1960年

『ギリシャ悲劇全集 II』 鼎出版会、1978年

『古典劇大系 第一巻希臘編(1)』 近代社、1925年

『世界戯曲全集 第一巻・希臘編』 近代社、1927年

『世界文學大系(2) ギリシア・ローマ古典劇集』 筑摩書房、1959年

『ギリシア劇集』 新潮社、1963年

脚注[脚注の使い方]
注釈^ C. M. Bowra argues for the following translation of the line:After practising to the full the bigness of Aeschylus, then the painful ingenuity of my own invention, now in the third stage I am changing to the kind of diction which is most expressive of character and best.[30]

脚注^ a b c d e f g h i j Sommerstein (2002), p. 41.


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