ソポクレス
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しかしその様式については留保し[31]、いつまでも模倣し続けはしなかった。

プルタルコスによると、ソポクレスは自分の成長の段階を三期に分けて次のように語る。第一期においてソポクレスは、「アイスキュロス流の大言壮語」でもって作品を作り始めた[32]。第二期に入るとアイスキュロスの作劇法を完全に自分のものにした。そして、聴衆の感情を掻き立てる手法を新しく導入した。例えば、『アイアース』において、アテーナイがアイアースをあざけると、舞台から役者がみな立ち去る。アイアースひとりを残して。彼が自殺できるようにである[33]。第三期は、前二期と異なり、台詞回しにいっそう気を使うようになったという。登場人物がいかにもその人物が語りそうな、自然な言い回しで話すように心がけ、個人的な感情をより説得力あるものにしたという[34]
ソポクレスの演劇
形式面

アイスキュロスの作品と比較した場合に、ソポクレスのもっとも特筆すべき創意工夫は、「続きもの」の悲劇を作ることをやめたことである[35]。われわれが知る限りにおいて、ソポクレスはそのような悲劇を一つも制作していない[35]。この変更は、一つの作品の範囲内で、登場人物の思い切った行動と、その心理に焦点を当てることになった[36]

また、アリストテレスによると、トリタゴニスト(フランス語版)(三人目の役者)を舞台に登場させることと、舞台上に背景美術を置くことも、ソポクレスの創意に帰せられるという[37][38][39]。三人目の役者の導入は、登場人物同士のやりとりや対立を豊かに表現することを可能にし、それと同時に悲劇の進行におけるコロスの重要性を低下させる結果をもたらした[36]オレステースに関する作品につけられた題名からも、そのことは如実に分かる。エウリーピデースの作品は『供養する女たち』という題名が示すように、コロスが前面に押し出されている。他方ソポクレスは主人公の名前から『エーレクトラー』と名づけている。ソポクレスの最初の構想はエウリーピデースの提示した物語の枠内に留まるものであったであろう。その構想にオレステースの姉が入り、作品の主役となった。ソポクレスの他の作品においても登場人物が悲劇の題名になっている。唯一の例外が『トラキスの女たち』である。[36]
倫理的葛藤

オイディプースの頑固さは、倫理的正当性を持たず、価値観への反発とも関係がない[40]。そのようなオイディプースを扱ったソポクレスの二作品を別として、残された作品に共通する第1の点は、倫理的な行動を選び取ることが作中で中心的な位置を占めていることである[41]。『アンティゴネー』はこれに最もよく当てはまり、家族と国家、人情と権力、信仰と遵法といった複数の「義務対」(ジャクリーヌ・ド・ロミリ(フランス語版)の表現)が対置される[42]。葛藤は人の掟と神の掟の葛藤に帰結されず、ジャン=ピエール・ヴェルナンが注釈するところによると、「完全な敬神とまったくの不信心が対置されない。ただし、信仰のあり方には二種類の異なる類型が提示される。一方は家族的でまったく個人的な信仰である。他方は公的な信仰であって、そこではポリスの守護神が最終的に国家の崇高な価値観に一体化する[43]」という。オイディプースの娘アンティゴネーのあやまちは狂信にあると、「死を司るディケー」は「天を司るディケー」に語る[43]

もう一つの好例が『エーレクトラー』である。『エーレクトラー』において、クリュタイムネーストラーアイギストス殺害のエピソードは悲劇の終わりになって初めて挿入される。悲劇は一貫してヒロインの心理を展開し、実母の殺害へと至る父のあだ討ちの主題を発展させる[41]。残りの作品にも同様に、倫理的対立構造が見られる。『アイアース』においては、名誉にこだわって自分を曲げられない主人公に対して、テレウタス(ギリシア語版)の娘テクメーッサの献身的な嘆き、アイアースの名誉回復の試みとアガメムノーンが、オデュッセウスの謙虚さとアイアースの傲慢さが、対置される。アイアースとテクメッサと同様に、『トラキスの女たち』においてはヘーラクレースとその従順な性格の妻、デーイアネイラが対置される[41]。『ピロクテーテース』は、アカイア人みなの利益を代表して、傷つき弱っているピロクテーテースの大切にしている物を盗む策略の適任者として、オデュッセウスに指名されたネオプトレモスのジレンマを描写することに作品全体が費やされている。「正直であることは、はしっこいことよりも価値のあることだよ」と言い、英雄は最終的にすべての妥協を拒む[44]
神々の役割

アイスキュロス劇では神々に重要な役割が与えられている。アイスキュロス劇における神々の重みに比すと、ソポクレス劇は神々に異なる役割を持たせており、神々は劇中の出来事から遠く隔絶した存在である。ボールドリーによるとソポクレス劇にはギリシア悲劇の原点である宗教儀式の雰囲気がない[45]。『アイアース』冒頭に現れるアテーナーだけは例外であるが、現存する作品の中に神々が劇中に姿を現す作品はない。しかし、この神々の遠さが結果として、ステージ上の演技により表現される人間の世界と、コロスの合唱により表現される神々の世界とのコントラストを強調する。神々の世界がコロスにより表現される作品としては『アンティゴネー』や[46]、『オイディプース王』がある[47][48]。その逆に、ソポクレスは人を儚いものと位置づけており[49]、過ぎ行く時の前には無力な存在であることを強調する[50]。『アイアース』ではコロスが「全能なる時間が消し去れぬものはない」と船乗りたちの唄を歌う[51]

神々との隔絶はしかし、神的な介入を妨げない。ソポクレス劇が神々の介入を受けるのは、ただ神託のみであって、アイスキュロス劇のように「神の正義」が示されることはない。また、その神託は神が決めた通りに動く人間の配役表に過ぎない[48]。『トラキスの女たち』では冒頭でデーイアネイラが、「ヘーラクレースは思いがけなく命を落とす。勝利を得るが、それゆえに人生最後の日々を平穏に過ごすことは決してないであろう。」という神託を述べる[52]。『アイアース』ではカルカースの予言を、伝令が伝えて次のように言う。「もしも我々が彼を助けんとし、いずれの神の御加護によってか、彼がこの日々に命を永らえたとしたならば、アテーナーの怒りはこの程度では済まぬ」[53]。ヘーラクレースの言葉によれば、ピロクテーテースはトロイアでしか治癒し得ない。しかし彼はトロイアにたどり着けるだろうか[54]?神託はしばしば不正確で曖昧なものであると考えられるので、神託には「希望を抱いたり過ちを犯したりする余地が残されている」[55]。時には、ヘーラクレースが息を引き取る場面のように、託宣を下す神々同士の歩み寄りが解決をもたらすこともある。ヘーラクレースは、父に下された託宣どおり、死ぬほどの苦痛にさいなまれて死ぬ。死という安らぎをヘーラクレースに与えるものは、妻デーイアネイラが夫の下着に塗ったネッソスの血であった[56]。神託がその通りにならないという余地が残されていることは、演じられている人物の運命に予期せぬ展開がもたらされるということでもある。Romillyによると、人間は運命の皮肉と呼びうるようなものの玩具に過ぎないという考えの上にソポクレスのドラマツルギーは成り立っている[55]。ソポクレスに特徴的なそれは、悲劇の観客の目には意味が明瞭であるが、劇中人物たちにとっては必ずしも意味が明らかではない悲劇的アイロニーである[57]。アイスキュロス悲劇とエウリーピデース悲劇における悲劇的アイロニーは、劇中人物が他の人物をだますというかたちになるが[58][59]、ソポクレス悲劇ではごく稀な例外を除いて、劇中人物同士であざむくことがなく、例えば『トラキスの女たち』で言えば、デーイアネイラがヘーラクレースを殺すための道具にされてしまい、英雄の死の前にコロスが希望の歌を歌うといったかたちになる[60]。『アイアース』、『アンティゴネー』における悲劇的アイロニーも同様である[61][62][63]。ソポクレス悲劇においてほしいままに振舞うのは、人間ではなくて神々である。

上述のような神々の遠さと悲劇的アイロニーは、『オイディプース王』において最も成功したかたちで見ることができる。自分が「父親を殺し母親とまぐわう」人物であることを知るためのオイディプースの「悲劇的探求」は、オイディプースが彼に対して宣告された神託から逃れるために行ったものではある。しかし、オイディプースはこの探求により、まったくの故意なく行った行動の結果を知ることになった。『オイディプース王』において顕著な、このアイロニーの完全性は、神々の残酷さ、あるいは無関心ゆえに引き起こされたと解釈されるべきではない。なぜなら、オイディプースは他の作品『コローノスのオイディプース』の中で加護される運命にあるからである[48]。敬虔なソポクレスによれば、「人間は理解はせずとも崇拝はする」ものであり、クレオン、オイディプース、イオカステーは、神々や神託を軽んじた対価を支払う。


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