ソポクレス
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なお、ソポクレスの息子の一人イオポーン(英語版)や、孫のソポクレス(祖父と同名)もまた、劇詩人になった[16]
作品と遺産萼型クラテールの外側の凹面白地部分に描かれた古代ギリシアの俳優の肖像。右上の文句は「アイスキュロスの息子エウイアオンは麗しい」と読める。羽のついた兜とブーツを身に着けていることから、ソポクレスの悲劇『アンドロメダー』においてペルセースを演じている可能性がある。紀元前430年ごろのもの。シチリア島のアグリジェント県立考古美術館(イタリア語版)蔵。

ソポクレスは数々の作劇上の新機軸を演劇にもたらした。彼が最初に試みたことは、三人目の演者の導入であった。この発明はギリシア演劇におけるコロスの役割を大幅に減じ、物語の展開と登場人物同士のぶつかり合いの表現の可能性を拓く大きなきっかけとなった[2]。ソポクレスが脚本を書き始めたころアテーナイの劇作界に大きな影響を及ぼしていたアイスキュロスでさえもソポクレスの後に続き、晩年に向けて自作に三人目の演者を登場させる構成になっていった[2]アリストテレスはスケノグラピア(skenographia)と呼ばれる背景美術(英語版)ないし舞台美術を最初に導入した人物がソポクレスであるとしている。巨匠アイスキュロスが紀元前456年に亡くなってはじめて、ソポクレスはアテーナイで最も卓越した悲劇詩人となった[1]

これ以後、ソポクレスは悲劇コンテストで勝利を重ね、ディオニューシア祭で18回、レーナイア祭で6回、優勝した[1]。ソポクレスの作品は構成上の革新に加え、登場人物たちの掘り下げ方に、従来の悲劇詩人たちよりも深いものがあることが知られている[2]。ソポクレスの名声は遠く異国にまで聞こえ、宮廷への出仕の誘いが一再ならずあったが、シチリアで亡くなったアイスキュロスやマケドニアで暮らしたエウリーピデースとは異なり、ソポクレスはこの種の誘いをすべて断った[1]。ソポクレスの作品『オイディプース王』は、アリストテレスが『詩学』の中で、悲劇における最高傑作の一例として挙げており、ソポクレス作品が後世のギリシア人にも高く評価され続けていたことがわかる[17]

現代まで伝わる7作のうち、制作年代がわかっているのは、『ピロクテーテース』(前409年)と『コローノスのオイディプース』(前401年、ソポクレスの孫が亡くなった後に上演された)の2作だけである[18]。その他の作品については、『エーレクトラー』が上記二作と様式上の類似を見せていることから、おそらく同時期、ソポクレス晩年の作であろう。同様に様式上の要素を検討したところによると、『アイアース』、『アンティゴネー』、『トラキスの女たち』の三作が初期作品であり、『オイディプース王』が中期に位置づけられる作品であると一般的に考えられている。ソポクレスの詩劇のほとんどには、その奥底に宿命論が一貫して流れると共に、ソクラテス的な論理の運び方の萌芽も見られる。これらはギリシア悲劇に長く続く伝統として受け継がれていった[19][20]
テーバイに関する三作

神話上の登場人物、オイディプースは、父を殺し、母と交わる。しかし彼は、いずれも自分の父母であることを知らずに、その行為を行った。オイディプースの子孫は三代にわたって呪われる運命となる。ソポクレスの悲劇、『オイディプース王』、『コローノスのオイディプース』、『アンティゴネー』の三作はいずれもオイディプースが治めていたころのテーバイ王家の運命に関する悲劇であるか、もしくはその後日談である[21]

この三作を一冊の本にまとめて出版することがよく行われているが[22]、三作はそれぞれ、異なる年のディオニューシア祭のために書かれたものである上、一作目が書かれてから三作目が書かれるまでの間に36年の月日が経っており、制作時期が大きく異なっている。制作の順序は神話上の時系列に沿ったものではなく、『アンティゴネー』、『オイディプース王』、『コローノスのオイディプース』の順で制作された。もとより三部作として制作されたものではなく、むしろ異なる三つの連作悲劇から抜き出された作品の寄せ集めである。そのため、テーバイ三作のストーリーにはいくつかの矛盾がある[21]。ソポクレスはこれらの三悲劇のほかにも、テーバイに関係する悲劇を書いている。そのうちの一つが『エピーゴノイ(英語版)』であるが、断片だけしか現代に残らなかった[23]
その他の悲劇作品

テーバイ三作のほかにソポクレスの作品としては、『アイアース』、『トラキスの女たち』、『エーレクトラー』、『ピロクテーテース』の四作が残っている。『ピロクテーテース』は前409年の悲劇コンテストで一等を取った作品である[24]

『アイアース』はトロイア戦争の誇り高き英雄、テラモーンの息子アイアースに焦点を当てる。アイアースは、アキレウスの形見の鎧が、自分ではなくオデュッセウスに送られることを知ると深く動揺する。そして、裏切りへと駆り立てられ最終的には自殺してしまう。メネラーオスアガメムノーンがアイアースへの敵意を募らせる中、オデュッセウスは、アイアースを丁重に葬るよう、両王を説得する。

『トラキスの女たち』は十二の難行を成し遂げた英雄ヘーラクレースを意図せず殺してしまったデーイアネイラの悲劇を基にしたものである。なお、劇の題名は女声のコロスが「トラーキースの女たち」を演じることにちなむ。ヘーラクレースの妻デーイアネイラは騙されて、ヒュドラの毒を媚薬と思い込み、夫の衣服の一つにそれを染み込ませる。ヘーラクレースは毒の苦しみにさいなまれながら死ぬ。真実を知ったデーイアネイラは自殺する。

『エーレクトラー』はアイスキュロスの悲劇『コエーポロイ』の筋書きにおおむね沿った物語であり、エーレクトラーオレステースが母クリュタイムネーストラーとその情夫アイギストスを殺し、二人に殺された父アガメムノーンの仇を討つ神話の詳細を語る。

『ピロクテーテース』はトロイア戦争に参戦したピロクテーテースの物語の再話である。ヘーラクレースの強弓を受け継いだピロクテーテースは、トロイアへ向かう途上、ギリシアの軍船に見捨てられ、レームノス島に置き去りにされる。ところが、ギリシア方は彼の持つ弓なしではいくさに勝てないことを知る。彼らはオデュッセウスとネオプトレモスを島に送り、ピロクテーテースを連れてこさせようとする。しかしながら、かつての仕打ちを忘れていない彼は復帰を断る。ピロクテーテースにトロイアへ行くことを説得しえたのは、デウス・エクス・マキナとして唐突に現れたヘーラクレースだけであった。
断片が残る作品

ソポクレスに関連付けられている詩劇の数は、下のリストに示すように120作品を越えるが[25]、いつごろ制作されたものであるかわかっている作品はほとんどない。『ピロクテーテース』は前409年に書かれたことが知られている。また、『コローノスのオイディプース』は前401年に上演されたことがあることだけがわかっている。上演時にソポクレスは既に亡くなっており、その上演はソポクレスの孫の成人の儀式における出来事であった。古代ギリシアの祭祀のために詩劇を書く場合、三つの悲劇に一つのサテュロス劇を添えて一組の四部作として奉呈するのが慣わしであった。大多数の作品の制作年代が不明であることに伴い、それらが、どの作品と組み合わされて一組となっていたのかがわからなくなっている。もっとも、テーバイに関する三作品が、ソポクレスの生前まとめて上演されたことはないことは確実である。

『イクネウタイ(英語版)』(追いかけるサテュロスたち)の断片は、エジプトで1907年に発見された[26]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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