ロシア革命時、農村は人口の80%を占めていた発などを含む「戦時共産主義」によって[疑問点 – ノート]、荒廃し特にウクライナで数百万人ともいわれる餓死者を出した。そのため1921年に穀物の強制徴発を廃止した新経済政策「ネップ」により、農業は戦前の水準を回復したが穀物の調達は困難になっていった。そこで1928年、スターリンは、農業集団化を実施し低賃金で酷使される集団農場と国営農場に改編された。クラークとされた勤勉な農民900万人は追放され、半数は処刑され残りは強制収容所に送られた。穀物の調達量は増加したが生産は低下し、1931年から1933年にかけて700万人が餓死した。抵抗した農民たちも最終的には工業労働者となったり集団農場に組織されたりした。
1941年に独ソ戦が始まると農村は壊滅的な打撃を受け、戦後も戦前と同様の経済体制を維持しながら戦後復興に着手したため、1946年から1947年かけて100万人以上が餓死し、多くが離農した。1953年、スターリンの死後、フルシチョフは、カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地、耕作放棄地の開拓事業を提案し、処女地からの穀物の収穫が試みられた。1955年から数年の間は処女地の収穫物によって穀物の不足は一時的に解消されたが、ルイセンコ理論や農地の砂漠化で処女地が不作に陥ると穀物は再び欠乏し国外から輸入するようになった。フルシチョフ失脚後も集団農場の生産性は上がらず、1980年代には集団請負制を導入するも、コルホーズ内のわずかな自留地では支えきれない大量の食料をアメリカから輸入していた。 東西対立の世界構造の中で、軍需産業に高い技術と莫大な資金を投じることで軍民転換が遅れ、冷蔵庫や洗濯機、乾電池や電子レンジなどの国民生活に必要な電化製品や、石鹸や洗剤、シャンプーやトイレットペーパー、鉛筆やボールペンなどの一般消費財、たばこや清涼飲料水などの嗜好品の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない低レベルの電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であり、これはリチャード・ニクソンとの台所論争でもアメリカから槍玉にされた。 さらにほとんどの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より数十年遅れていたといわれているうえ、その多くがフィアット(トリヤッチを参照)やパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたもの、もしくは西側製品の無断コピーや、第二次世界大戦時にドイツ国内から接収、略奪したオペルの生産工場施設からの技術の流用であった。 電化製品や一般消費財、嗜好品や自動車は、市場における競争に勝ち残るために西側諸国では頻繁に行われていた新製品の開発や市場投入、改良や価格改定はほとんど行われず、なにも改良されないまま30年以上にわたり同じ製品が製造されていた。 自動車の個人所有は共産党幹部などの限られた階級の人間に限られ、それ以外の階級のものが手にするためには、電化製品同様数年待たなければいけない状態であった。まして労働者階級がジルやヴォルガなどの高級車や、レオニード・ブレジネフなどが愛用したシトロエンなどの西側諸国からの輸入車を所有することは事実上不可能であった。 上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。また農産物などとの物々交換の形式とした例もあった。農産物により外貨獲得のため食料輸出輸入公団(S.P.I. Groupの前身)が西側にも輸出していたが、ウォトカは西側諸国ではカクテルベースとして人気があったことから、アメリカでのストリチナヤの販売権を得たペプシコは、ソ連国内で販売されるペプシコーラの濃縮液との物々交換で支払っていた[111]。 衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。1975年の国別工作機械生産額でもソ連は世界3位である。その多くが事実上の援助品とあるいは、相手国の一次産品とのバーター貿易など無償に近い形で供給された。1930年からペレストロイカ実施まで、商業手形が廃止されていたので流通・割引がなく、取引はゴスバンク 西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのたばこやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。 会計も社会主義に基づいて進められ、会計士は計画経済を進める最高国民経済会議のために働くこととなった。国営企業の会計責任者は、貸借対照表と会計報告書を作成して会計を組織する責任を負った。中央集権化と集団農場化が進んだ1930年代からは、スターリン主義者によって会計学は個別企業のみを対象にしていると批判され、スターリン主義に批判的な会計士は活動の場を奪われ、ソ連財務省と中央統計局が会計の指導と監督を行うようになった[113][114]。 会計人は中央省庁の計画をもとに実務を行う簿記係と、上級機関に責任を持つ会計担当者に分かれた。経営の改善や専門家としてのイニシアティブを発揮する余地はなくなり、会計は硬直化した[115]。1960年代からは経済改革による分権化が始まり、計画経済や企業管理において利潤・原価・価格・利子なども評価されるようになり、会計士は科学技術協会(HTO)に所属して専門家として活動した。HTOでは資本主義諸国の会計の取り入れも検討された[注釈 26][117]。 1980年代後半のペレストロイカから民営化や市場経済化が始まり、西側諸国との合弁企業で市場経済の会計が部分的に導入され、企業の営業秘密が認められた[118]。1991年のソ連の崩壊後は市場経済化がさらに進み、ロシアでは公認会計士にあたる監査士が国家資格化された[119]。 1989年時点における米ソの比較 ソビエト連邦はアメリカとは同レベルのGDPでなかったが、アメリカ以上に巨大な面積と資源で超大国としての地位を得ていた。アメリカと対等レベルの核兵器を保有しているとみられていたために、直接対決だと共倒れを招くために自国の軍事行動にアメリカを介入させることはできなかった。国内総生産、また1人あたりのGDPもアメリカの2分の1から3分の1ほどであった。 国民の生活レベルを犠牲にして、ひたすら重工業投資と、軍事支出に資源を集中していた。1950年代に約15%だったソ連の投資率は、1980年代には30%に達し、軍事費率もある推定では1980年代中頃には16%に達していた。
消費財の流通
貿易
輸入消費財
会計監査
アメリカ合衆国との比較
1990年のザ・ワールド・ファクトブックに基づくデータ[120]。
ソビエト連邦 アメリカ合衆国
GDP(PPP,1989年 ? million $)2兆6,595億ドル5兆2,333億ドル
人口(1990年7月)約2億9,093万人約2億5,041万人
1人あたりのGDP(PPP,$)9,211ドル21,082ドル
労働力(1989年)約1億5,230万人約1億2,555万人
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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